るさんちまん|ressentiment|哲学・道徳心理学
たとえば、仕事で認められたいと思っていた人が、同僚ばかり評価されることに強い悔しさを感じているとします。相手に追いつく道も、評価の仕方を変える道も見えず、その思いを抱え続けるうちに、「目立とうとする人は浅はかだ。認められようとしない自分の方が誠実だ」と考えるようになります。
それまで欲しかった評価を「追い求める価値のないもの」と見なせば、同僚の成功を軽蔑できます。自分が評価されないことにも、「誠実に生きているからだ」という意味が生まれます。
これは、ニーチェが論じたルサンチマンを身近な場面に置き換えた例です。行動で反撃できないまま敵意や恨みを抱き続けるうちに、相手を否定する価値判断が生まれる。ニーチェはこの働きから、ヨーロッパの道徳の成り立ちを考えました。
相手がいなくても、恨みは続く
ルサンチマンはフランス語のressentimentを移した言葉です。一般のフランス語では、受けた仕打ちへの恨みや苦い思いを指し、復讐したい気持ちを伴うこともあります。日本語では「怨恨」とも訳されます。ニーチェはこのフランス語をドイツ語の著作に取り入れ、1887年の『道徳の系譜』で詳しく論じました。
同書の第一論文第10節には、行動によって応じられない人々が、想像上の復讐に埋め合わせを求める姿が描かれます。相手との力の差が大きければ、怒りを表したり、仕返しをしたりすることは難しくなります。受けた屈辱を忘れられず、その思いを隠して暮らすうちに、相手のいない時間にも恨みが繰り返されます。
頭の中で相手を言い負かします。いつか相手が罰を受けると考えます。自分の方が立派な人間だと思います。こうした想像の中なら、現実にはかなわない相手を裁くことができます。ニーチェが注目したのは、その復讐心が、何を善とし、何を悪とするかにまで入り込むことでした。
職場と心中の言葉は本文に沿った架空の説明例で、原典の逐語引用ではありません。最後の評価は人物の心中を示します。怒りや社会批判全般をルサンチマンと判断する基準としては使えません。
自分を「よい」と呼ぶところから始まる評価
『道徳の系譜』が問うのは、善悪の判断が、誰の、どのような生き方から生まれたのかということです。ニーチェは序文で、その判断が人間の生を促してきたのか、妨げてきたのかも問いかけます。その手がかりとして、第一論文では二つの評価の道筋を描きます。
貴族的な道徳では、力を持つ人々が、自分たちの勇敢さや誇り、自分から行動する力を優れたものと感じ、それを「よい」と呼びます。そこから、自分たちに比べて低く平凡に見える人々を「わるい」と位置づけます。原語のschlechtには、この文脈で「低級な」「劣っている」という評価が込められています。
第一論文第11節に描かれる貴族たちは、仲間の間では敬意や忠実さを重んじながら、集団の外では苛烈な暴力を振るいます。自分たちにとって誇らしい力の発揮が、襲われる側には苦痛や恐怖をもたらします。
その相手に対抗できない人々からは、「あの人々は悪い」という評価が生まれます。こちらの原語はböseで、相手を道徳的に責める「邪悪」の意味を持ちます。まず力を振るう敵を悪とし、その反対にいる自分たちを善とします。この順序で価値が作られる道徳を、ニーチェは奴隷道徳と呼びました。ルサンチマンは、そこで価値を生む力として働きます。
反撃できないことが、善良さになる
第一論文第13節には、子羊と、ワシなどの猛禽のたとえが出てきます。猛禽に襲われる子羊たちは、猛禽を悪と呼び、その反対の子羊を善いものとします。この評価を支えるのが、力のある者も、力を使わないことを選べたはずだという考えです。そう考えれば、猛禽には襲った責任を問い、子羊には危害を加えない善良さを認められます。
ここでニーチェが批判するのは、行為の背後に「行うかどうかを自由に選べる者」がいると考えることです。そう考えると、力を発揮した側は非難され、反撃する力のない側は「あえて反撃しなかった者」として称えられます。能力や状況の違いが、善悪を選んだ意志の違いに置き換わるのです。
参考記事→自由意志
続く第14節は、理想が作られる暗い工房をのぞく場面です。おびえて身を低くすることが謙虚さに、待つほかない状態が忍耐に言い換えられます。復讐できないことも、復讐しないという意志として語られ、さらに赦しの名を与えられることさえあります。
新しい善悪が、社会に広がる
ニーチェの説明では、こうして生まれた評価が人々に共有されると、何を誇り、何を恥じるかが変わっていきます。力を誇示していた者も、強さや成功を後ろめたく感じ、自分の欲望を抑えることに価値を認めるようになります。
ニーチェは、ルサンチマンが価値を生み出すところから「道徳における奴隷の反乱」が始まると書きました。第一論文では、古代ユダヤ教の宗教的な指導者である祭司たちから、キリスト教へと受け継がれる価値観に、この反乱を読み取ります。貧しい者や苦しむ者が善とされ、力ある者が悪とされる逆転を、ヨーロッパの道徳の歴史として描いたのです。
第一論文の工房にいる人々は、苦しむ自分たちこそ神に愛されていると語ります。今の不幸も試練として受け止め、将来は幸福で報われると信じます。ニーチェは、敵が裁かれ、自分たちが報われるという期待にも、ルサンチマンによる復讐を見ていました。
怒りが自分へ向けられるとき
第三論文では、恨みが自分自身へ向けられる場面が論じられます。苦しむ人は、その苦しみを誰かのせいだと考え、責める相手を探します。そこに登場するのが禁欲的な司祭です。欲望を抑えて生きることを説く宗教的な指導者として、苦しむ人々にその原因を説明します。
司祭が示す答えは、あなた自身に罪がある、というものです。その説明を受け入れると、責めるべき相手は自分になります。人は自分の欲望や振る舞いを監視し、罪を探すようになります。過去の出来事を思い返しても、自分の過ちの証拠が次々に見つかり、さらに自分を責めます。
ニーチェによれば、司祭はこうしてルサンチマンの向きを変え、苦しむ人々を導きます。人々は、苦しみの理由と、罪を償うために何をすべきかを示されます。その意味づけが苦しみに耐える支えとなる一方で、罪の意識がさらに苦しみを深めていく。第三論文では、その両面が描かれています。
法が仕返しを抑える場面
恨みの広がりを抑える働きについて、ニーチェは第二論文第11節で、法と正義を取り上げます。争っている者たちより強い権力が介入し、和解を命じたり、損害に応じた償いの基準を設けたりする場面です。被害を受けた人が自分で報復する動きは、この権力によって抑えられます。
法が何を許し、何を禁じるかを定めると、個々の行為はその基準から判断されます。誰かを傷つけた行為は、被害者の怒りを呼ぶ出来事に加えて、共同体の法に背いた行為として扱われます。
被害を受けた当事者も、恨みの強さに応じて罰を求めるのではなく、定められた基準で行為と償いを考えるよう促されます。ニーチェは、法を定める権力のこの働きに、個人的な恨みから距離を取った判断の始まりを見ていました。
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関連語
ニヒリズム/価値判断/奴隷道徳/貴族道徳/罪責感/禁欲的理想
参考文献
- ニーチェ『道徳の系譜』(1887年)。序文 §§3,6、第一論文 §§2,4,7–8,10–11,13–14、第二論文 §11、第三論文 §§15–16,20,28。ドイツ語原文。
- Nietzsche, F., The Genealogy of Morals, Horace B. Samuel訳(1913年)。Project Gutenberg公開版。
- Anderson, R. L., Friedrich Nietzsche, Stanford Encyclopedia of Philosophy, §2。
- Académie française, ressentiment, Dictionnaire de l’Académie française, 9e édition, 語義2。
- 渡邊二郎「ニーチェ:生きる勇気を与える思想」。訳語「怨恨感情」の用例確認に使用。