じゆういし|free will|哲学
駅で財布を拾い、窓口に届けました。「落とした人が困るだろう」と思ったからです。誰かに命じられたわけではなく、そのまま立ち去ることも思い浮かびました。そのうえで届けたのだから、自分の意志で行動したと言いたくなります。 S1
困っている人を助けたいという気持ちには、育った環境や過去の経験も関わっています。そのときの判断は、性格や疲れ、脳の働きとも結びついています。そうした条件の積み重ねから行動が生まれるとして、その行動をどの意味で「自分で選んだ」と言えるでしょうか。 S1
自由意志とは、選択や行為を自分で決め、制御する力をめぐる概念です。何があればその力を持つと言えるのか、私たちに実際に備わっているのかが、哲学の長い論争になってきました。そこには「別の行動もできたか」と「その行動は本人から生じたか」という、二つの大きな問いがあります。 S1
過去から未来が一つに決まるとしたら
自由意志を考えるとき、よく登場するのが決定論です。過去の世界の状態と自然法則が完全に定まれば、その後に起こることも一通りに決まるという考えです。同じ過去と同じ法則を保ったまま、財布を届ける未来と、届けない未来の両方が可能なのでしょうか。決定論は、この意味での分かれ道を認めません。 S1 S8
ここで同じ条件に戻すというのは、駅や時刻だけをそろえることではありません。本人の記憶、迷い方、その瞬間の脳や身体の状態まで含めて、過去を完全に同じにすることです。日常の「あのとき、もっと考えていれば」という振り返りより、ずっと厳しい条件を置いています。 S1 S8
この考えの中でも、考えることや努力することは結果を生む原因になります。試験に向けて勉強したことが合格につながるなら、その勉強も出来事のつながりの一部です。「何をしても同じ結果になる」という宿命論とは、ここに違いがあります。 S8
自分の望みと理由に従えること
両立論は、決定論が正しくても自由意志は成り立ちうると考えます。十八世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームは、『人間知性研究』で、意志の決定に従って行動したり、行動を控えたりできることを自由と捉えました。動こうと思えば動け、静止しようと思えば静止できる、という説明です。 S1 S2
財布を届ける場合なら、届けたいという自分の意志に沿って歩き、窓口に渡せます。その行為と、脅されて同じことをさせられる場合とでは、行動が生まれる経緯が違います。 S1 S2 S9
現代の両立論には、理由を理解し、それに応じて行動を変えられる能力を重視する考え方があります。財布を届けようとしていた人も、急病人を見つければ、救助を優先するでしょう。事情が変わったことを理解して判断を調整する、こうした能力から本人による制御を考えます。 S9
実際には急病人がいなくても、必要な情報を知れば判断を変えられる人かどうかが問われます。ここでは、本人が知る事情を変えて、その応じ方を考えています。過去のすべてを固定して未来が分かれるかを問う決定論とは、考える条件が異なります。 S1 S9
決める本人には、どんな力が必要か
非両立論は、自由意志と決定論は同時には成り立たないと考えます。そのうち自由意志の存在を認める立場は、リバタリアニズム、または自由意志論と呼ばれます。行為が生まれる過程に、過去から一通りには決まらない余地が必要だとする立場です。 S1 S9
ヒュームと同時代のトマス・リードは、人間の能動的な力を扱う1788年の著作で、自分の意志の決定を左右する力を論じました。望みに従って手足が動くだけでなく、何を意志するかについて、行為者自身が力を持つ必要があります。彼の考えでは、行為者が自らの決定を生み出す原因となります。 S3
ここで課題になるのが、偶然と制御の関係です。結果が偶然に揺れるだけでは、本人が制御したことにはなりません。自由意志論は、未来の開かれ方と、自分で決めることを結びつけて説明する必要があります。自由意志に懐疑的な立場は、責任を負うために必要だと考えられてきた力そのものが、私たちに備わっているのかを問い直します。 S1 S9
別の行動ができなくても、責任はあるか
行動を評価するとき、私たちは本人が事情を理解していたか、強い脅しを受けていたかを気にかけます。約束を忘れた人と、約束を守ろうとして閉じ込められた人では、相手が腹を立てる理由も変わります。本人を責めたり感謝したりすることは、どのような能力や状況を前提とするのでしょうか。 S1 S9
「他の行動ができたか」は、道徳的な責任とも結びつきます。ハリー・フランクファートは1969年、両者のつながりを検討する思考実験を示しました。ある人物の選択を監視し、望まない選択をしそうになったときだけ介入する者を想像します。本人はその仕組みを知らず、実際には自分の理由で、監視者も望んでいた行動を選びます。介入は一度も起こりません。 S4
この設定では、別の行動をしようとすれば止められます。しかし実際の行為は、本人の理由から生じています。フランクファートは、この場合にも本人に道徳的責任があると論じました。この思考実験をきっかけに、選べた道の数と、実際にどのように決めたかを、それぞれ検討する議論が発展しました。 S1 S4
「動こう」と思う前の脳活動
神経科学からこの問題に近づいたのが、ベンジャミン・リベットらの実験です。1983年の研究では、参加者は自分の好きな時点で指や手首を素早く曲げ、動こうという気持ちを最初に意識した時点を、回転する光点の位置を使って後から報告しました。研究者は脳波と筋肉の活動も記録しました。 S5
運動の開始時点をそろえて脳波を平均すると、参加者が報告した意図の時点より数百ミリ秒早く、「準備電位」と呼ばれる変化が始まっていました。これは、動作に先立って現れるゆっくりした電位の変化です。リベットらは、動こうという自覚より先に、脳で動作の開始に関わる過程が進むと解釈しました。また、動作を直前に止めることや、あらかじめ熟慮する選択には、意識が関与する可能性も論じました。 S5
脳の信号と、選択の内容を調べる
準備電位が何を表すかについては、その後も研究が続いています。アーロン・シュルガーらは2012年、神経活動のゆらぎが蓄積され、一定の水準に達すると運動が起こるモデルを示しました。運動が起きた瞬間をそろえて平均すると、その前のゆらぎから、徐々に変化する波形が現れます。このモデルでは、運動の開始を決めるのは、活動が一定の水準に達した時点です。 S6
2019年のウリ・マオズらの研究では、寄付先を選ぶ課題を使いました。どちらの団体に寄付するかを考えて選ぶ条件と、どちらのボタンを押しても両団体への配分が同じになる条件を比べました。任意に押す条件では準備電位が明瞭に見られ、寄付先を熟慮して選ぶ条件では、同じ明瞭な変化は見られませんでした。 S7
自分の報酬を増やす選択を用いた2025年の別研究では、報酬のある条件のほうが、ない条件より準備電位が強く現れる結果が報告されました。寄付先を選ぶ課題とは、動作や判断する内容も異なっています。何を決めるときの脳活動なのかが、結果の解釈に関わります。 S7 S10
窓口で交わす言葉
窓口で「届けてくれてありがとう」と言われ、「急いでいたけれど、落とした人が困ると思ったので」と答えます。そのやり取りには、相手の事情を想像し、自分の予定を変え、届けることを選んだ人への感謝があります。日常の「自分で決めた」という言葉も、こうした判断と行動のつながりを含んでいます。 S1 S9
参考記事→実存
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出典
- S1 Timothy O’Connor and Christopher Franklin (2022). Free Will. Stanford Encyclopedia of Philosophy, substantive revision 2022-11-03..
- S2 David Hume (1748). An Enquiry concerning Human Understanding, Section VIII: Of Liberty and Necessity. Hume Texts Online, E 8.23, SBN 95ほか..
- S3 Thomas Reid (1788). Essays on the Active Powers of Man, Essay IV, Chapter I: The Notions of Moral Liberty and Necessity Stated. 原著1788。転載題名 On the Liberty of Moral Agents..
- S4 Harry G. Frankfurt (1969). Alternate Possibilities and Moral Responsibility. The Journal of Philosophy, 66(23), 829–839. DOI:10.2307/2023833..
- S5 B. Libet, C. A. Gleason, E. W. Wright and D. K. Pearl (1983). Time of conscious intention to act in relation to onset of cerebral activity (readiness-potential). The unconscious initiation of a freely voluntary act. Brain, 106(3), 623–642. DOI:10.1093/brain/106.3.623..
- S6 Aaron Schurger, Jacobo D. Sitt and Stanislas Dehaene (2012). An accumulator model for spontaneous neural activity prior to self-initiated movement. Proceedings of the National Academy of Sciences, 109(42), E2904–E2913. DOI:10.1073/pnas.1210467109..
- S7 Uri Maoz, Gideon Yaffe, Christof Koch and Liad Mudrik (2019). Neural precursors of decisions that matter—an ERP study of deliberate and arbitrary choice. eLife, 8:e39787. DOI:10.7554/eLife.39787..
- S8 Carl Hoefer (2023). Causal Determinism. Stanford Encyclopedia of Philosophy, copyright 2023..
- S9 Kevin Timpe (n.d.). Free Will. Internet Encyclopedia of Philosophy..
- S10 Guillaume P. Pech, Emilie A. Caspar, Elisabeth Pacherie, Axel Cleeremans and Uri Maoz (2025). A multi-measurement study of the relation between deliberation and volition. Neuroscience of Consciousness, 2025(1), niaf023. Published 2025-08-07.. DOI: 10.1093/nc/niaf023