工学化と抽象化シリーズ|単独テーマ記事「身体と人間観」
目標を立てる。時間を管理する。習慣を記録する。感情を整える。睡眠、運動、食事、生産性を最適化する。
どれも役立つ方法です。それなのに、自分をよくしようとするほど、自分から離れていくような感覚が生まれることがあります。
管理する自分と、管理される自分が、心の中に同居し始めるからではないか。
自己管理が苦しくなるのは、意志が弱いからとは限りません。組織が人を測ってきた基準を、本人が自分の内側へ持ち込み、自分自身を測定・改善・最適化の対象として扱う。その構造に原因があるかもしれません。
自由になったのに、管理は増えている
以前の工場では、管理者が作業を分解し、時間を測り、方法を決めました。現代の仕事では、本人が目標を立て、時間を配分し、感情を調整し、学習を続け、キャリアを設計することを求められます。
これは、旧来の命令型労働より自由です。自分で方法を選べることには、大きな価値があります。
しかし同時に、管理責任の一部が組織から個人へ移っています。
外的管理
↓
自己管理
↓
自己監視
↓
自己改善
↓
自己最適化
上司が見ていなくても、自分で自分を点検します。休んでいるときも「この時間は有効か」と考えます。感情が乱れると、「うまく管理できていない」と評価します。
管理が消えたのではありません。管理する視線が、内面へ移ったのです。
自己啓発と企業管理の意外な共通点
企業管理と自己啓発は、一見すると正反対です。一方は他者からの管理で、もう一方は主体的な自己実現に見えます。
しかし、どちらにも同じ前提が入り込むことがあります。
人間は、測定し、改善し、最適化できるシステムである。
企業は社員をもっと生産的にしようとし、自己啓発は自分自身をもっと生産的にしようとします。目標、指標、習慣、結果を結びつけ、望ましい状態へ自分を設計します。
フーコーは、近代の権力を、上から命令し罰する力だけとして捉えませんでした。観察、比較、訓練、試験などを通じて、人を一定の規範に沿う主体へ形成する働きを論じています。[1] また「自己の技法」は、個人が自分の身体、思考、行為へ働きかけ、自分自身を形成する実践を捉えます。[2]
本稿の「工学化の内面化」は、これらと近い問題を、現代の自己計測や自己改善へ広げた仮説です。フーコー自身が「自己啓発は企業管理の内面化だ」と述べたわけではありません。また、自発的な訓練のすべてが支配になるわけでもありません。
問題になるのは、外部の評価制度と個人の自己改善が、同じ生産性、正常性、最適化の基準で接続されるときです。
基準そのものが見えなくなる
自分で決めた目標には、強い納得感があります。そのため、達成できないとき、目標の側ではなく自分の側を疑いやすくなります。
- もっと努力が必要だ
- 習慣化が足りない
- 感情の扱いが未熟だ
- 自己肯定感が低い
- 時間管理が下手だ
もちろん、本当に改善できることもあります。けれども問題の原因が、長すぎる労働時間、曖昧な役割、矛盾した評価、経済状況、家庭負担、人間関係にある場合でも、「自分をもっと整えれば解決できる」と考えることがあります。
外部の問題が、個人の不足へ翻訳されるのです。
ここで自己管理は二重に働きます。環境へ適応するために自分を変え、その適応が苦しくなると、さらに適応できる自分へ変えようとします。環境の基準を問い直す回路が閉じます。
ケアまで生産性の道具になる
メンタルケア、ご自愛、休息、内発的動機、自立性は、それ自体として大切です。ただし、それらが「再び高い生産性を出せる個人へ戻すこと」だけに使われると、根本の組織や環境は変わりません。
安全感を持たせたうえで同じ方法で管理する。ストレスをケアしたうえで同じ成果を求める。休むことまで効率化し、睡眠を翌日の生産性へ投資する。
こうなると、ケアは管理の反対ではなく、管理を長く続けるための補助装置になります。
問うべきなのは、ケアが有効かどうかだけではありません。
そのケアは、誰が決めた基準へ戻るためのものなのか。
自分が選んだ目的のために体調を整えることと、外部の基準へ適応し続けるために自分を修理することは、同じように見えても異なります。
すべてを環境のせいにする話でもない
ここまで読むと、努力や責任を否定しているように見えるかもしれません。しかし、自分へ働きかけることには、人を固定的な身分や運命論から解放する面があります。練習、習慣、治療、生活改善が実際に助けになることもあります。
区別したいのは、自己管理の有無ではなく、次の点です。
- 目的を自分で選べるか
- 評価基準を検討し直せるか
- その実践を拒否したり休んだりできるか
- 結果が自分の生活へ返るか
- 環境の側も変更対象になっているか
精神的な不調には、遺伝、神経生物学、発達、家庭環境、社会関係、経済状況、身体疾患、睡眠、労働環境など多数の要因が関係します。ここで提案しているのは、そのすべてを自己管理で説明することでも、社会構造だけで説明することでもありません。個人の不足へ回収されやすい問題に、環境側の視点を戻すことです。
「どう自分を変えるか」の前に置く問い
自己改善を始める前に、次の順番で考えられます。
- 何に困っているのかを、評価語ではなく具体的な出来事で書く
- その困りごとは、どの場面、相手、時間帯、条件で強くなるかを見る
- 自分の行動で変えられる部分と、環境を変える必要がある部分を分ける
- 目標と基準を誰が決め、達成の利益を誰が受け取るかを確かめる
- 小さく試し、結果から基準そのものを改訂する
この順番なら、自分へ働きかけることが、自己監視だけになりません。自分も環境も、現実から学び直す対象になります。
管理される自分から、感じて選ぶ自分へ
自分を管理対象として見ると、自分は常に未完成です。足りない能力、乱れた感情、無駄な時間、改善すべき習慣が見つかります。
しかし人間は、目標へ向かう生産システムだけではありません。疲れ、迷い、他者に影響され、遊び、偶然から学び、目的そのものを変える存在です。
必要なのは、自己管理をすべて捨てることではありません。
管理の道具を、自分へ向けた命令ではなく、自分と環境を学び直すための仮説として使うことです。
数字や習慣が現実に合わなければ、自分だけでなく数字や習慣のほうも変える。その改訂権を自分に残すことで、自己管理は自己支配ではなく、生活との対話に戻ります。
この記事の要点
- 現代では、管理責任の一部が組織から個人へ移り、自己監視が強まりやすくなっています。
- 自己啓発と企業管理は、人間を測定・改善・最適化できるシステムと見る点で接続する場合があります。
- 外部の問題まで個人の不足へ翻訳すると、基準や環境を問い直す回路が閉じます。
- ケアも、生産性へ戻すことだけを目的にすると、管理の補助装置になり得ます。
- 自分と環境の両方を変更対象にし、基準の改訂権を手元に残すことが重要です。
関連する単独テーマ記事:数字で管理するほど、人が縮んでいくのはなぜか
参考文献
1. Foucault, M. (1975/1995). “Panopticism.” In Discipline and Punish: The Birth of the Prison, trans. A. Sheridan, 195–228. https://www.foucault.info/documents/foucault.disciplineAndPunish.panOpticism/
2. Foucault, M. (1982). “Technologies of the Self.” Lectures at the University of Vermont. https://foucault.info/documents/foucault.technologiesOfSelf.en/