工学化と抽象化シリーズ|第1部「二重の工学化」第4回(全12回)
自己啓発は、会社からの管理とは正反対のものに見えます。
会社は外から人を管理します。自己啓発は、自分の意志で人生を変えようとします。目標を持ち、習慣を変え、自分の可能性を広げることは、むしろ管理からの解放に思えます。
しかし、そこで使われる言葉を並べると、不思議な共通点が見えてきます。
目標を設定する。時間を管理する。習慣を設計する。生産性を測る。感情を整える。睡眠や運動を最適化する。能力を高め、市場価値を上げる。
対象が社員から「自分」に変わっただけで、測定、改善、管理、最適化という方法は、企業の管理とよく似ています。
自己啓発は、管理から自由になる思想なのでしょうか。それとも、管理者の役割を自分で引き受ける思想なのでしょうか。
答えは単純ではありません。自分を変えようとする試みは、誰かに命令されて行うとは限りません。もっと成長したい、よい仕事をしたい、心身を安定させたいという、自分自身の願いから始まることもあります。
それでも、そこで使っている「よい状態」の基準は、本当に自分で選んだものなのか。この問いは残ります。
外からの管理が、自分の目標と声に変わったとき、管理は消えたように見えながら、もっと深く人間の内側へ入ります。
自己啓発や自己管理を一括して否定するのではなく、誰の基準で、何のために、自分を改善しようとしているのかを考えます。
人間が管理可能な項目へ分解される
社会や組織をシステムとして設計すると、その中で働く人間も構成要素として扱われます。
人間 → 労働力 → 人的資源 → 人材 → 能力・スキル → パフォーマンス → KPI・生産性
個人の能力、行動、成果を測り、適切に配置し、育成することは、企業運営にある程度必要です。
しかし、ここで使われる人間観が会社の外へ広がり、本人も同じ方法で自分を見るようになると、状況が変わります。
自分を、経験し、関係を結び、迷いながら生きる存在としてではなく、改善すべき複数の変数の集合として扱うようになるからです。
企業管理と自己啓発に共通するもの
企業による管理と自己啓発は、正反対に見えます。前者は他者からの管理であり、後者は主体的な自己実現に見えるからです。
しかし、深いところでは共通する人間観を持つ場合があります。
人間とは、測定・改善・最適化できるシステムである。
企業は社員をもっと生産的にしようとし、個人は自分自身をもっと生産的にしようとする。外部の管理システムが要求していたことを、本人が自分の目標として引き受けます。
外的管理 → 自己管理 → 自己監視 → 自己改善 → 自己最適化
もちろん、目標を立てることや、自発的に練習することが、すべて支配の内面化になるわけではありません。問うべきなのは、目的を誰が決めたか、基準を拒否・変更できるか、改善の結果が誰に帰属するかです。
命令しなくても人が自分を管理する仕組み
この過程を考えるうえで、ミシェル・フーコーの議論は重要な参照点になります。
フーコーが示したのは、近代の権力が上から禁止し、罰するだけではないことです。人間を観察し、比較し、訓練し、一定の規範に沿う主体へ形成する働きも持ちます。
『監獄の誕生』で扱われる規律権力は、階層的な監視、規格化する判断、試験・検査などを通して、個人を可視化し、有用で統制しやすい身体へ訓練する技術として整理できます。[1]
さらに「自己の技法」は、個人が自らの身体、思考、行為へ働きかけ、自分自身を形成し直す実践を指します。[2]
この二つを接続すると、外部の評価基準が、個人の自己観察、自己評価、自己改善の基準へ入り込む過程を理解しやすくなります。
ただし、フーコー自身が「現代の自己啓発は企業管理の内面化である」と直接論じたわけではありません。外部の評価制度と自己改善が、同じ生産性、正常性、最適化の基準によって接続される場合に、本シリーズの解釈が当てはまります。
自由になったのに管理責任は増える
現代の労働者は、命令された作業を行うだけでなく、自分で目標を立て、時間と感情を調整し、学習し、新しい環境へ適応し、キャリアを設計することを求められる場合があります。
これは、旧来の工場労働より裁量が増えたという意味で、解放的な面を持ちます。
一方で、管理責任が組織から個人へ移動します。
管理者が労働者を管理する
↓
労働者が自分自身を管理する
管理基準を自分の目標として受け入れた後は、達成できない理由も自分の中へ探しやすくなります。目標そのものが妥当だったか、環境に問題がなかったかという問いが後ろへ退きます。
自己管理が増えたことと、主体性が増えたことは同じではありません。自分で効率よく動いていても、何を目的とするかを決められなければ、管理の実行者が自分に変わっただけかもしれません。
二つの正反対な人間像
ここには、一見すると矛盾する二つの人間像があります。
近代経済学の単純化された合理的経済人は、情報を集め、利益と損失を比較し、最適な選択を行う判断者です。現代経済学は、サイモンの限定合理性、行動経済学、情報の非対称性などによって、このモデルを大きく修正しています。サイモンは、人間と組織が完全な情報処理能力を持たず、すべての選択肢を比較する最大化モデルから外れることを体系的に扱いました。[3]
一方、テイラー主義的な労働者は、自分では判断せず、設計された手順を実行する存在です。
全能の判断者と、無判断の実行者。正反対に見えますが、どちらも人間を身体、感情、関係、文脈から切り離された情報処理装置として扱う点で似ています。
工学的組織では、その機能が階層に沿って分けられます。
認識と判断は管理側へ。行為は労働側へ。評価は再び管理側へ。
そして現在では、労働側に自己管理まで求められます。このとき個人は自由な主体に見えながら、組織の基準を自分の内部で実行する役割を担います。
自己啓発が直ちに「支配」になるわけではありません。自分で選んだ目的のために練習し、記録し、生活を整えることは、自分の行為能力を高めます。
問題になるのは、疲れたときには休み方を最適化し、やる気が出ないときには動機を管理し、成果が出なければ自分の習慣を修正するというように、どの問題も「自分というシステム」の改善不足として解釈されるときです。
そのとき私たちは、環境や評価基準を問い直す前に、内側にいる管理者から「もっと自分を整えなければ」と命じられます。外からの管理に反発することはできても、自分の願いに見える命令から距離を取るのは簡単ではありません。
大切なのは、自己管理をやめることではなく、自分が使っている基準を変更できることです。その目標は誰のためのものか。達成できないとき、本人だけでなく環境も検討できるか。改善した先に、自分の活動や関係が本当に豊かになるのか。
次の記事では、人間や組織のように、構成要素そのものが学習し変化する対象へ、機械と同じ管理モデルを使うと何が起きるのかを考えます。そこで問うのは、管理をなくすことではなく、管理できるものと、探索へ委ねるものの境界です。
この記事の要点
- 人間は、能力、成果、KPIなど管理可能な項目へ抽象化されます。
- 企業管理と自己啓発は、人間を改善可能なシステムと見る点で重なる場合があります。
- 外部の評価基準が自己評価の基準になると、管理は自己管理として内面化されます。
- 自分で管理することと、自分で目的を決めることは同じではありません。
- 合理的な判断者と無判断の実行者は、一つの機能を組織の上下へ分けた人間像として捉えられます。
参考文献
1. Foucault, M. (1975/1995). “Panopticism.” In Discipline and Punish: The Birth of the Prison, trans. A. Sheridan, 195–228. https://www.foucault.info/documents/foucault.disciplineAndPunish.panOpticism/
2. Foucault, M. (1982). “Technologies of the Self.” Lectures at the University of Vermont. https://foucault.info/documents/foucault.technologiesOfSelf.en/
3. Simon, H. A. (1978). “Rational Decision-Making in Business Organizations.” Nobel Prize Lecture. https://www.nobelprize.org/prizes/economic-sciences/1978/simon/lecture/