工学化と抽象化シリーズ|第1部「二重の工学化」第9回(全12回)
丁寧に説明した。手順も細かく示した。本人も理解したと言っている。それなのに、実際の場面になるとできない。
そこで私たちは、説明がまだ足りないと考えます。もっと分かりやすく、もっと細かく、正しい方法を伝えようとします。
しかし、足りないのは説明ではなく、自分なりの予測を立て、それを現実の中で試す経験かもしれません。
人は正解を受け取るだけでなく、自分で予測し、それを試し、結果とのずれを修正するときに学ぶのではないでしょうか。
この見方に立つと、教えること、失敗すること、探索することの意味が変わります。
学習の最小単位は予測と修正の循環
本シリーズでは、学習の最小単位を次の循環として捉えます。
予測する → 働きかける → 予測と結果のずれを受け取る → 予測を作り替える
人は世界へ働きかける前に、何らかの予測を持っています。意識的に考えているものだけではありません。この道具はこれくらいの重さだろう。この人はこう答えるだろう。この打ち方ならボールはこう飛ぶだろう。多くの予測は、言葉になる前から働いています。
実際に働きかけると、結果が返ってきます。ボールは予想より飛ばないかもしれません。相手は思っていた反応をしないかもしれません。そこで生じる予測と結果のずれが、次の予測を作り替えます。
人はこの循環を無数に繰り返しながら、考え方、知識、技能、行動の癖を形づくっていきます。
このモデルは、学習を「正しい情報と手順が、教える側から学ぶ側へ移されること」と見る工学的人間観とは異なります。
- 工学的人間観:学習とは、正しい情報と手順の移送である。
- このシリーズの人間観:学習とは、自分の予測が外れ、その差分によって予測が更新されることである。
正しい説明を受けても、それを使って予測し、現実とのずれを経験しなければ、情報は使える形になりません。
外から与えられる知識が無意味なのではありません。知識は予測をつくるための材料です。ただし、その材料が本人のものになるには、それを使って予測し、試し、外す過程が必要です。
探索とは自分の予測を試すこと
予測と結果のずれは、自分から働きかけたときに生まれます。
言われたとおりに動くとき、人は自分で結果を見込まずに済む場合があります。手順どおりに実行し、うまくいかなければ、手順か指示した人の問題として処理できます。自分の予測がなければ、そのずれも明確にはなりません。ずれがなければ、予測の更新も起こりにくくなります。
この意味で、探索は好き勝手に行動することではありません。
探索とは、自分なりの予測を立て、現実の中で試すことです。
何が起こるかを自分なりに見込んでいるからこそ、予想と違う結果から豊かな情報を受け取れます。
この観点から見ると、管理が学習から奪うものも違って見えます。単に自由を奪うのではありません。手順と正解が先に与えられ、逸脱が罰せられる環境は、自分なりの予測を試す機会を奪います。自分で考えないことが、その環境への合理的な適応になりえます。
失敗をなくすと学習の材料もなくなる
工学的人間観では、失敗は避けるべき逸脱であり、少ないほどよいものです。
しかし予測と修正のモデルでは、失敗は予測誤差の別名であり、学習の材料です。
もちろん、取り返しのつかない失敗まで許すべきだという意味ではありません。生命、安全、権利、組織の存続に関わる損害には、強い制約が必要です。
問うべきなのは、小さく試し、外れたら戻せる場を確保しているかです。失敗をゼロにした環境は安全に見える一方で、学習の材料が枯れた環境にもなります。
教育でも仕事でも、正解を知ってから動くことだけを求めれば、未知の状況に出会ったときに必要な予測と修正の力は育ちにくくなります。
能力は部品のようには組み上がらない
工学的人間観では、能力も部品の組み上げとして捉えられます。要素Aを習得し、要素Bを習得し、両方が揃えば上位の機能Cが完成するという考え方です。
ここで提案する見方では、多数の要素が同時に少しずつ変わり、ある時点で噛み合うことで、新しいまとまった動き方や考え方が現れます。
知覚の仕方、身体の使い方、道具の扱い、状況の読み方、注意の配り方。これらは別々に完成して最後に接続されるのではなく、互いに影響し合いながら並行して組み替わります。そして、どこかで全体が一つの形になります。
この現れ方を、このシリーズでは自己組織化と呼びます。
この見方に立つと、学習でよく見られる現象も、単なる失敗ではなくなります。
- 非線形性:練習量に比例して伸びず、停滞のあとにまとまって変わる。
- 経路の多様性:同じ到達点へ、人によって異なる道筋で至る。
- 文脈依存性:ある場面でできることが、別の場面ではできない。
- 一時的な崩れ:一度できたことが、より広い状況へ対応する再構成の途中で崩れる。
停滞、個人差、一時的な不調を、すぐに能力不足や指導の失敗と決めつける必要はありません。相互に関係する要素が組み替わる途中である可能性もあります。
基礎から応用への流れはなくならない
この考えは、「基礎から応用へ」という大まかな流れを否定するものではありません。
違うのは、基礎を完成済みの部品として捉え、それを積み上げれば自動的に応用ができると考えないことです。基礎的な練習の内部でも、予測と修正の循環は回っています。
同じ基礎へ繰り返し戻るたびに、知覚、身体の使い方、状況の捉え方が少しずつ組み替わります。その変化が、やがて応用的な行為として現れます。
基礎と応用は別々の部品ではなく、同じ学習循環が、扱う課題の複雑さを変えながら続いていく過程です。
自由にさせるだけでも学べない
探索が重要だからといって、何も教えず自由にさせればよいわけではありません。予測誤差から学ぶには、まず予測を持つための材料が必要です。
何も知らない人に「自分で考えなさい」と言うことは、判断の材料も足場もないまま試行錯誤を求めることです。それは自由ではなく、放置になりえます。
したがって、学習には次のような順序が考えられます。
最小限の足場(知識、スキル、ヒントなど)を渡す → 自分で予測して試す → ずれを受け取る → 修正する → 次の足場
明示的な説明、反復練習、標準の提示も、この循環の一部になれます。違いは、説明や標準を渡したところで終わるか、その後に本人が予測し、試し、ずれを修正する過程が続くかです。
教える側の役割も、正解をすべて渡すことから、学ぶ人が予測を持てるだけの足場と、外れても戻れる課題を設計することへ広がります。
「説明したのにできない」とき、説明を増やす前に、その人が自分で結果を予測し、試し、返ってきた違いを受け取れる構造になっているかを確認できます。
学ぶ本人に必要なのも、最初から正しく考えることではありません。自分が何を予想していたのか、現実はどこで違ったのかを確かめ、次の試行を少し変えることです。
そして、この予測は理性だけでつくられるものではありません。何へ注意を向けるか、何を危険と感じるか、どこまで試せるかには、身体、情動、他者、環境が関わっています。
次の記事では、「理性的で独立した個人」を前提にせず、身体と情動と関係の中で学ぶ主体を捉え直します。
この記事の要点
- 学習は、予測、行為、結果とのずれ、予測の修正という循環として捉えられます。
- 知識や説明は予測の材料ですが、受け取るだけでは使える形になりません。
- 探索とは好き勝手に動くことではなく、自分なりの予測を現実の中で試すことです。
- 小さく可逆的な失敗は、学習に必要な予測誤差を生みます。
- 基礎から応用への流れはあっても、能力は完成した部品の積み上げではなく、探索と修正の反復から立ち上がります。
- 自由放任ではなく、足場と試行錯誤を交互に置くことが重要です。