工学化と抽象化シリーズ|第1部「二重の工学化」第1回(全12回)
仕事の手順を整え、目標を明確にし、進捗を数字で確かめる。うまくいかなければ原因を探し、研修や面談で改善する。
組織が人を育てようとするとき、こうした方法を使うのは自然です。曖昧なまま任せるより、役割と評価基準を示したほうが動きやすい。失敗を減らし、一定の品質を守るためにも管理は必要です。
それなのに、奇妙なことが起こります。
手順を詳しくするほど、指示がなければ動けない。評価項目を明確にするほど、その項目にない仕事が見えなくなる。失敗を防ぐほど、自分で試し、結果から学ぶ機会が減っていく。
本人にやる気がないのでしょうか。教え方が足りないのでしょうか。それとも、成長を助けるはずの仕組みそのものが、人の学び方と食い違っているのでしょうか。
人を成長させるために管理を精密にするほど、人が自ら成長するための余地を狭めてしまうことがある。
この逆説を、管理者の能力や個人の意欲だけの問題として捉えると、対策はさらに細かな管理か、本人の自己改善になります。しかし、もう少し深いところには、私たちが人間と社会をどのようなものとして見ているかという問題があります。
機械で成功した方法が社会へ広がった
近代社会は、複雑な対象を分解し、計測し、標準化し、目的に合わせて設計することで発展してきました。
機械の部品、工場の工程、交通、建築、物流。複数の要素を共通の規格へそろえ、原因と結果を確かめ、望ましい結果を再現する方法は、大規模な生産と組織運営を可能にしました。
この方法が優れていることに疑いはありません。安全性や再現性が必要な領域では、個人の勘だけに任せるより、手順や基準を整えたほうがよい結果につながります。
しかし、その成功によって、機械とは性質の異なる対象まで、同じ方法で扱う傾向が強まったのではないか。
自然、社会、組織、そして人間そのものを、理解・予測・設計・管理・最適化できるシステムとして見る。複雑な現象を要素へ分け、数値やカテゴリーへ置き換え、外から設定した目的に沿って動かそうとする。
この連載では、このような問題設定を広い意味で 「工学化」 と呼びます。
工学化とは、複雑な対象を変数へ分解し、外部から設定した目的に沿って、測定・標準化・予測・制御しようとする見方です。
工学や技術そのものを批判する言葉ではありません。問いたいのは、ある領域で大きな成功を収めた方法を、人間の学習や創造にも、そのまま適用できるのかということです。
社会を設計し、その社会に合う人間をつくる
工学化には、互いに結びついた二つの方向があります。
一つ目は、社会、組織、制度、仕事の工程など、人間の外側にある環境を設計可能な対象として扱うことです。
仕事を職務へ分ける。成果を指標にする。組織を階層と部署に分ける。制度によって人の行動を調整する。こうして、複雑な現実を管理できる形へ変えていきます。
二つ目は、その環境の中で働く人間を、測定・訓練・評価・改善できる対象として扱うことです。
能力を項目に分け、適性を測り、必要なスキルを身につけさせ、成果を評価する。さらに現代では、人がその基準を自分の目標として受け入れ、自分の時間、感情、健康、能力を管理するところまで広がっています。
この二方向を、本シリーズでは 「二重の工学化」 と呼びます。
第一の工学化:社会・組織・制度・工程など、人間の外部環境を工学的に扱うこと
第二の工学化:人間の能力・行動・身体・感情など、人間の扱いを工学的にすること
重要なのは、二つが別々に進むのではないことです。
制度が人間を測る。人間がその基準に合わせて自分を調整する。その結果が新しいデータとなり、制度の評価方法をさらに強める。
環境の工学化 → 外部からの人間管理 → 自己管理 → 工学化された環境の再生産
という循環が生まれます。
管理が切り分けるもの
機械では、設計者が目的と動作を決め、部品がそのとおりに働くことが望まれます。しかし、人間の学習では、自分で状況を見て、試し、返ってきた結果を受け取り、次の行動を変える過程そのものが重要です。
管理者が状況を認識し、目標と手順を決め、本人は指定された行為だけを担当する。評価も管理側が行い、本人には点数や指示だけが戻る。この形では、作業は進んでいても、認識、判断、行為、結果の受け取りが別々の人へ分かれます。
そこで失われる可能性があるのは、単なる自由ではありません。
何が起きているかに自分で気づくこと。別の方法を試すこと。予想と結果の違いから学ぶこと。状況に合わせて自分の行為を変えること。こうした学習の循環です。
だから、指示されたことを正確にできる人が、状況が変わった途端に動けなくなる場合があります。本人の能力が突然なくなったのではなく、自分で認識し、判断し、修正するところまで経験する機会が少なかった可能性があります。
同じことは、創造性にも起こりえます。新しい価値は、最初から正解が分かっている課題だけからは生まれません。何が役に立つか分からない試み、職務から少しはみ出した関心、現場で偶然見つかった違和感が必要になることがあります。管理が余白をすべて無駄として取り除けば、短期的な効率と引き換えに、変化へ適応する材料まで失うかもしれません。
問うべきなのは管理の有無ではない
ここから「管理をなくせ」という結論を出すのは早計です。
安全基準、会計、契約、共通規格のように、曖昧にしてはいけないものがあります。すでに方法が分かっており、同じ品質を安定して再現することが重要な仕事もあります。
一方、教育、研究、商品開発、創作、複雑な顧客対応のように、試してみなければ答えが分からない領域もあります。そこまで一つの手順で覆えば、必要な探索まで止めてしまいます。
問題は、管理か自由かという二択ではありません。
工学的な方法が有効な領域では使い、学習と創発が必要な領域では、人が自ら試し、現実から学べる余地を残す。
その境界を考えるには、なぜ私たちが社会と人間を設計可能な対象として見るようになったのかを知る必要があります。
人が伸びないとき、すぐに能力や意欲を測り直すのではなく、その人が自分で状況を認識し、試し、結果を受け取れる環境だったかを問い直す。同じ職場や教育の風景が、そこから少し違って見えてきます。