「わかること」への依存ー理解することで安心しようとする心

Sep 24, 2026

前回の記事では、「よく考える」という性格の背後に、考えることで先を予測可能にし、自分を落ち着かせるという適応が含まれている場合がある、と書きました。今回は、その「わかることで安心する」という働きを、もう少し掘り下げてみます。

私たちは、何かわからないことがあると理解しようとします。原因を探し、仕組みを知り、言葉で整理する。これは人間にとって非常に重要な能力です。

しかし、ときに「わかること」そのものが、単なる知的活動ではなく、安心するための方法になっていることがあります。わからないことがあると落ち着かない。原因がわかると安心する。説明がつくと納得できる。先の展開が読めるようになると、不安が減る。

すると、わからない → 考える → 整理する → わかる → 安心するという一つの反応パターンができます。

この反応そのものが悪いわけではありません。むしろ、状況を整理し、先を予測し、問題を解決するためには非常に役に立ちます。ただし、この方法に頼りすぎると、「まだわからない」という状態にとどまることが難しくなります。

「わかること」が安心を作る

人間は、先が読めない状況を常に快適に感じるわけではありません。これから何が起きるのかわからない。相手が何を考えているのかわからない。自分が正しいのかわからない。どうすればうまくいくのかわからない。

こうした不確実性に対して、人はさまざまな方法で対応します。その一つが「理解すること」です。

なぜこうなったのか。どういう仕組みなのか。何をすればいいのか。どこまで進めば正解なのか。これらがわかると、それまで曖昧だった状況に境界線が引かれます。予測できる範囲が増え、「何が起きるかわからない」という感覚が少し小さくなります。

考えることで、頭の中で物事が整理されて秩序立てられる。納得感が得られる。

考えることはいいことだと思われがちですが、実はそこには落とし穴があります。それは主に、下記のようなことです。

1つ目:複雑なこと、わかりようがないことも、自分の頭だけで整理して「わかった気になる」問題
2つ目:「わからない」という不快感に耐えられないために、いつも「考える」ことで安心感を得ようとする

今回は2つ目について説明します。

心理学には「不確実性への不耐性(Intolerance of Uncertainty)」という概念があります。不確実な状況を受け入れにくい傾向が強いほど、予測可能性を求めたり、心配を繰り返したりしやすいことが研究されています[1]。わからないことに耐えられない人ほど、予測可能であることを求めたりしてしまうことです。

ただし、ここで言いたいのは「よく考える人は不安が強い」という単純な話ではありません。考えることには、知的好奇心、問題解決、創造、学習などさまざまな機能があります。

重要なのは、人によっては考えることが、不確実な状態から早く抜け出し、安心を取り戻すための手段として強く使われている場合があるということです。私はこれを、便宜的に「認知による安全確保」と考えるとわかりやすいと思います。

経験する前に、わかろうとしてしまう

わからない、モヤモヤする、といった状況に置かれているとき、必ずしも解決策は「考える」だけではありません。行動してその状況から抜け出す、人に頼って助けてもらう、気晴らしをしたら大した問題じゃないことがわかった、といったこともあります。

しかし、考えることで安心する、という適応戦略を取ってきた人は、その戦略ばかりに依存してしまうことがあります。

この適応が強くなると、物事を経験する前に理解しようとする傾向が生まれます。何か新しいことを始めるときも、まず「どういう感覚が正しいのか」を知ろうとする。自分の感情についても、「これは何なのか」「なぜこう感じるのか」を先に説明しようとする。人との関係でも、「この関係はどういう状態なのか」「相手は何を考えているのか」を整理してから安心しようとする。

もちろん、ある程度の理解は役に立ちます。しかし、身体感覚や感情、人間関係、運動技能などには、経験した後でなければ意味がわからないことがたくさんあります。

たとえば泳いだことのない人が、泳ぎ方について詳しい説明を聞いたとします。浮力、呼吸、身体の角度、腕の使い方について理解することはできます。しかし、水の中で身体がどのように浮き、力を抜くとはどういう感覚なのかは、実際に水に入らなければ十分にはわかりません。

運動学習でも、動作について言葉で説明できる知識と、実際に身体が技能を獲得していく過程は同一ではありません。技能は練習を通して次第に手続き化・自動化されていきます[2]

つまり、わかる → できるだけではなく、やってみる → 感じる → 少しできる → 後から意味がわかるという学習があります。

頭でわかる速度と、身体が変わる速度は違う

ここで重要になるのが、理解と経験の「速度差」です。言葉による理解は非常に速く進みます。説明を聞けば、その日のうちに新しい考え方を理解できます。本を読めば、数時間で自分の問題について新しい説明を手に入れることもできます。

「なるほど、自分はこういう理由で緊張するのか」「この動きでは、ここを使えばいいのか」「自分の対人関係には、このようなパターンがあったのか」

こうした理解は短時間で得られます。しかし身体や感情の学習は、それほど速く変わりません。

「ここでは安心してよい」と頭では理解していても、身体は緊張することがあります。「力を抜けばよい」とわかっていても、運動中には無意識に力が入ります。「失敗しても問題ない」と理解していても、実際に失敗しそうになれば強く不安になることがあります。

これは、理解が間違っているとは限りません。概念として理解することと、身体や感情が新しい反応を学ぶことは、同じ過程ではないからです。そのため、概念的理解の速度 > 身体的・経験的学習の速度という状態が起こります。

頭だけなら、どこまでも先に進むことができます。しかし実際の自分は、まだそこまで進んでいない。ここに大きなずれが生まれます。

頭の理解はすぐに進むが、体・感情の学習は経験をくり返して少しずつしか進まず、その間にずれが生まれることを示したグラフ
図1 頭でわかる速度と、身体が変わる速度は違う

「わかったのに変わらない」という沼

すると、次のような循環が起こることがあります。何かについて説明を聞く。「よくわかった」と感じる。ところが、しばらくすると以前と同じ反応が出る。身体は緊張するし、不安にもなる。同じ対人パターンを繰り返す。動きもうまく変わらない。

すると、「まだ本当にはわかっていないのではないか」と思う。そこで、さらに調べます。もっと細かい説明を知る。原因を深く掘る。より高度な理論を学ぶ。さらに先の段階について質問する。

すると、また納得します。しかし、身体や行動はそれほど変わらない。そこで再び、「まだ何か理解できていない」と考える。

こうして、理解する → 納得する → 変わらない → 理解不足だと思う → さらに理解するという循環に入ります。

理解する、納得する、変わらない、理解不足だと思う、をくり返す循環と、足りないのは理解ではなく経験かもしれないことを示した図
図2 「わかったのに変わらない」循環

しかし、ここで不足しているものは本当に「理解」なのでしょうか。もしかすると足りていないのは、経験の積み重ねなのかもしれません。

実際に動いてみる。失敗する。人と関わる。以前とは違う対応をしてみる。身体の反応を感じる。その状態にしばらくとどまる。こうした経験がまだ十分にないのに、言葉だけでその先を理解しようとしても、どうしても限界があります。

理性は、現実より先まで進める

理性の特徴の一つは、現実にはまだ経験していないところまで進めることです。将来を想像する。仮説を立てる。原因を考える。抽象化する。複雑な出来事を一つのモデルにまとめる。これは人間の非常に強力な能力です。

しかし、その強さゆえに、理性は実際の自分よりも何段階も先まで進むことができます。身体ではまだ違いを感じられないのに、「その先ではどうなるのか」を考える。基本的な経験がまだ十分でないのに、「もっと高度な段階では何が起きるのか」を知ろうとする。安心という感覚を十分に経験していないのに、「安心とは本質的にどういう状態なのか」を理解しようとする。

理性的には問いを作ることができます。しかし、その問いに答えるための経験がまだ自分の中にない。すると説明を聞いて一度は納得しても、実感による支えがないため、また疑問が生まれます。ここでは「問いが深い」ことと、「今その問いを理解できる段階にいる」ことは別です。

複雑な現実を、説明によって閉じる

さらに、理解することにはもう一つの作用があります。複雑な出来事に説明を与えることで、状況を一つにまとめることができます。

「自分がこうなったのは、この経験が原因だ」「相手がこういう態度を取ったのは、こういう性格だからだ」「自分の問題は、この心理的メカニズムによるものだ」

説明がつくと、それまで混乱していた出来事が一つの物語になります。それによって気持ちが落ち着くこともあります。

しかし現実の問題は、原因が複数あったり、因果関係が複雑だったり、実はただの偶然でトラブルに巻き込まれただけであることもあります。理性による問題の整理は、複雑な問題を単純化し、間違った結論を得てしまう場合も多いです。

人間の心理や人間関係には、多数の要因が重なっています。その複雑さに耐えられないとき、「原因はこれだった」と簡単に整理することで一時的な安心感をもたらすことにはなるかもしれません。しかし、間違った結論に至って根本的な問題の解決から遠ざかることになることもあります。また、自分の記憶を1つの単純化した物語にして、自分のアイデンティティを「悲劇の主人公」のように単純にまとめ、自分の行動を制限してしまう場合もあります。

もちろん、物事を考え、整理し、説明可能にすること自体が悪いわけではありません。問題なのは、説明が現実を理解するための仮説ではなく、安心するための単純化した結論になってしまうことです。

考え方を変えるだけでは、変わらないことがある

さらに興味深いのは、このパターンそのものを「考え方」によって変えようとすると、同じことを繰り返してしまう可能性があることです。たとえば、「自分は考えすぎなのだ」「もっと身体感覚を大切にしなければならない」「わからない状態を受け入れるべきだ」と理解したとします。

すると、「なるほど。これからは考えすぎず、身体を感じればいいのだ」と納得する。しかし、これもまた「正しい考えを理解することで問題を解決しようとしている」状態かもしれません。

内容は変わっていますが、理解する → 正しい方法を知る → 自分を変えるという構造そのものは変わっていません。

長く繰り返してきた適応パターンは、説明を一つ理解しただけで消えるとは限りません。特に、不快な身体感覚や不確実な気持ちをすぐに解消しようとする行動は、短期的には楽になるため、繰り返されやすいという問題があります。心理学では、嫌な内的経験を避けたりコントロールしたりし続けることが、長期的には行動の柔軟性を狭める場合があるという議論があります[3]

「わからないまま経験する」という学習

では、どうすればよいのでしょうか。一つ重要なのは、わからないことを、すぐにわかる状態へ変えなくてもよいということだと思います。

まだよくわからない。まだ感覚がない。説明を聞いても実感できない。なぜこう反応するのかはっきりしない。その状態ですぐに答えを探すのではなく、少し経験してみる。

身体を動かしてみる。何度か同じ練習をする。人とのやり取りを続ける。自分の反応を観察する。そこで何かが起きても、すぐに意味を決めない。すると、経験が少しずつ蓄積されます。

以前は全部同じに感じていたものの中から、「これは少し違う」と感じられるようになる。それまで抽象的だった言葉が、突然具体的にわかることもあります。「あのとき言われていたのは、この感覚だったのか」という理解です。

この場合、理解 → 経験ではなく、経験 → 感覚の変化 → 理解という順番で学習しています。人間の学習の多くは、頭での理解より先に経験が必要なのだと思います。

「わかること」を捨てる必要はない

ここで大切なのは、理性や理解を否定しないことです。考えることは、人間にとって非常に重要です。経験を整理し、そこから法則を見つけ、他の場面へ応用するためには言葉や概念が必要です。

問題になるのは、わかることだけが変化の方法だと思ってしまうことです。

言葉で理解できることもある。一方で、身体が先に学ぶこともある。何度も経験した後で、初めて意味がわかることもある。そして、今の自分にはまだわからないこともある。

そう考えると、「まだわからない」という状態は、必ずしも失敗ではありません。それは単に、まだ経験が言葉に追いついていない途中の段階なのかもしれません。

だから、何かを理解しようとして考え続けているときには、一度こう問い直してみることもできます。これは今、もっと理解する必要がある問題なのか。それとも、しばらく経験する必要がある問題なのか。

理解を止めるのではありません。理解だけで先へ進もうとするのを、いったん止める。その間に、身体や感情や現実の経験が追いつくのを待つ。

「わかること」は人を助けます。しかし、ときには「まだわからないまま経験できること」の方が、その先の理解を深くしてくれるのかもしれません。


注と参考文献

  1. 不確実性への不耐性
心理学ではIntolerance of Uncertainty(不確実性への不耐性)という概念が研究されています。先がわからない状態そのものを強く不快に感じ、受け入れにくい傾向のことです。この概念を測る尺度を作った初期の研究では、不確実性への不耐性が強い人ほど心配が多いという関連が示されました。その後、この傾向は心配や不安を幅広く説明する中心的な要素の一つとして研究が続いています。ただし、本文で用いた「認知による安全確保」は正式な学術用語ではなく、理解・説明・予測によって不確実性を小さくしようとする現象を説明するための便宜的な表現です。

Freeston MH, Rhéaume J, Letarte H, Dugas MJ, Ladouceur R (1994). Why do people worry? Personality and Individual Differences, 17(6), 791–802. doi: 10.1016/0191-8869(94)90048-5. https://doi.org/10.1016/0191-8869(94)90048-5

Carleton RN (2016). Fear of the unknown: One fear to rule them all? Journal of Anxiety Disorders, 41, 5–21. PMID: 27067453. doi: 10.1016/j.janxdis.2016.03.011. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/27067453/

  2. 言葉で理解することと、身体が学習すること
運動学習の古典的なモデルでは、技能の習得を3つの段階で説明します。最初は頭で手順を考えながら動く段階、次に練習によって誤りが減っていく段階、最後にほとんど意識しなくても実行できる段階です。認知心理学でも、技能は「宣言的知識」(言葉で説明できる、事実としての知識)から出発し、練習を重ねるうちに「手続き化」(やり方そのものが身につき、いちいち考えなくても実行できるようになること)されていく、というモデルが提案されています。実際の運動学習では両者が相互作用するため単純な二分法ではありませんが、「動きを説明できること」と「自動的に実行できること」は同じではありません。

Fitts PM, Posner MI (1967). Human Performance. Brooks/Cole.

Anderson JR (1982). Acquisition of cognitive skill. Psychological Review, 89(4), 369–406. doi: 10.1037/0033-295X.89.4.369. https://doi.org/10.1037/0033-295X.89.4.369

  3. 内的経験を避け続けること
Acceptance and Commitment Therapy(ACT)などでは、身体感覚・感情・思考・記憶といった内側の経験に触れ続けることを嫌がり、それらを避けたり変えようとしたりすることを「体験の回避(experiential avoidance)」と呼びます。これによって短期的な苦痛は減っても、その方法に固定されると、長期的には行動の柔軟性を狭める場合があると考えます。反対に、状況に応じてやり方を切り替え、自分の大切にしたいことに沿って行動できる力は「心理的柔軟性」と呼ばれ、心の健康の土台の一つとして研究されています。ただし、「考えて安心すること」すべてを体験の回避とみなすことはできません。本文では、理解が不快な不確実性から逃れるために固定的に使われている場合に限って、近い構造として参照しています。

Hayes SC, Wilson KG, Gifford EV, Follette VM, Strosahl K (1996). Experiential avoidance and behavioral disorders: A functional dimensional approach to diagnosis and treatment. Journal of Consulting and Clinical Psychology, 64(6), 1152–1168. doi: 10.1037/0022-006X.64.6.1152. https://doi.org/10.1037/0022-006X.64.6.1152

Kashdan TB, Rottenberg J (2010). Psychological flexibility as a fundamental aspect of health. Clinical Psychology Review, 30(7), 865–878. PMID: 21151705. doi: 10.1016/j.cpr.2010.03.001. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/21151705/

START YOUR JOURNEY

目的に合わせて選べる2つの道

🌿 ご自身のケアに

週替わりのワーク動画で、心身を整える。
セルフケアを習慣化したい方へ。

オンライン教室(一般)
🎓 指導・探求のために

脳神経系と骨格構造を論理的に学ぶ。
指導者を目指す方のための認定講座。

インストラクター養成
Follow me
情報発信に力を入れています。