【117】下行性疼痛抑制系 ― 安心すると痛みが減る脳の仕組み

May 08, 2026

「安心したら痛みが和らいだ」経験

「信頼できる人に話を聞いてもらったら、腰痛が軽くなった」「旅先でリラックスしたら、いつもの頭痛が消えた」「ボディワークを受けているうちに、痛みを忘れていた」。

こうした経験は「気のせい」と片づけられがちです。しかし、これは神経科学的に実在するメカニズムの結果かもしれません。

脳には、危険を察知すると痛みを増幅する仕組みがある一方で、安全を感じると痛みを積極的に抑制する仕組みが存在します。それが**下行性疼痛抑制系(Descending Pain Inhibitory System)**です。

脳は「痛みのボリューム」を調節している

痛みは、体のどこかが傷ついて発生する単純な信号ではありません(015参照)。体の末梢から送られてきた「侵害受容信号」を、脳が文脈に応じて増幅したり減弱させたりして、最終的に「痛み」という体験を生み出しています。

下行性疼痛抑制系に関する包括的なレビューでは、中脳の水道周囲灰白質(PAG)から延髄の吻側腹内側髄(RVM)を経由して脊髄後角に至る下行性経路が、脊髄レベルでの痛み信号の伝達を調節していることが示されています [1]

この系は2つの方向に働きます:

  • 抑制モード:安全・安心の文脈 → PAGが活性化 → セロトニン・ノルアドレナリン・エンドルフィンが放出 → 脊髄で痛み信号がブロックされる → 痛みが軽減
  • 促進モード:危険・不安の文脈 → PAGの抑制機能が低下 → 脊髄での痛み信号がフリーパスになる → 痛みが増強

つまり、同じ組織状態でも、脳の文脈判断によって痛みの体験はまったく変わるのです。

運動で痛みが減るメカニズム

「動くと痛みが和らぐ」という体験も、この下行性抑制系と関係しています。

運動と鎮痛の関連を調べた研究では、中等度の有酸素運動中および運動後に内因性オピオイド(β-エンドルフィンなど)の血中レベルが上昇し、これがPAGを活性化して下行性疼痛抑制を強化することが報告されています [2]

いわゆる「ランナーズハイ」は、この内因性オピオイドの放出による鎮痛と多幸感の混合状態です。しかし、激しい運動だけがこの効果をもたらすわけではありません。ゆっくりとした心地よい動きでも、快い感覚入力が脳に「安全」を伝え、下行性抑制系を活性化する可能性があります。

「安心」が最大の鎮痛薬

下行性疼痛抑制系の活性化において、もっとも強力な因子の一つが**「安心感」**です(019参照)。

プラセボ効果の神経科学的研究から、プラセボ(偽薬)による鎮痛効果が内因性オピオイドの放出を伴い、PAGの活性化を介した下行性疼痛抑制のメカニズムと重なることが示されています [3]

つまり、「安心」「信頼」「期待」という心理状態が、脳内の化学物質を変え、実際に痛みの伝達をブロックするのです。

これは「痛みが気のせいである」ということではありません。痛みの伝達回路に、安心感が物理的に介入しているということです。

慢性痛と下行性抑制系の機能不全

慢性痛の患者では、この下行性疼痛抑制系の機能が低下していることが複数の研究から示唆されています。

慢性的なストレスや不安、恐怖が持続すると:

  • PAGの機能が低下し、下行性抑制が弱まる
  • 脊髄での痛み信号がブロックされにくくなる
  • 中枢性感作(051参照)が進み、痛みのベースラインが上昇する

結果として、わずかな刺激でも強い痛みを感じるようになり、「原因がわからない」「画像検査では異常がない」にもかかわらず痛みが続くという状態が生まれます(017参照)。

JINENのアプローチ ― 「安全の文脈」を作る

JINENボディワークが慢性的な体の不調に対して「治す」のではなく「環境を整える」スタンスを取る理由が、ここにあります(083参照)。

下行性疼痛抑制系を活性化するために:

  • 安全な環境を作る:指導者の安定した存在(038参照)、声のトーン(040参照)、安心できる空間が、ニューロセプション(007参照)を通じて脳に「安全」を伝える
  • 心地よい範囲で動く:痛みを我慢して動くのではなく、「気持ちいい」「心地いい」範囲で動く。快い感覚入力がPAGを活性化させる
  • 呼吸を深くする:ゆっくりとした呼吸は迷走神経を活性化し(010参照)、副交感神経優位の状態が下行性抑制系を間接的に強化する
  • 痛みの「解釈」を変える:痛みが「組織の損傷」ではなく「脳の過敏なアラーム」かもしれないことを知るだけで(015参照)、恐怖回避モデル(018参照)の悪循環から抜け出すきっかけになる

安心は、単なる心理状態ではなく、脳内の化学反応を変え、痛みの伝達回路に物理的に介入する「生理学的事象」です。 体の安全を感じさせることが、もっとも根本的な鎮痛アプローチなのかもしれません。

補足 この記事は、読者の方々の個人的な実践や学習のヒントとなる研究を紹介する目的で制作したものです。効果を保証するものではありません。また、エビデンスは最新の研究によって覆される場合や、賛否があるものもあります。学習や実践の参考程度にしてください。

参考文献


  1. Millan, M. J. (2002). Descending control of pain. Progress in Neurobiology, 66(6), 355–474. ↩︎

  2. Boecker, H., Sprenger, T., Spilker, M. E., Henriksen, G., Koppenhoefer, M., Wagner, K. J., ... & Tolle, T. R. (2008). The runner's high: Opioidergic mechanisms in the human brain. Cerebral Cortex, 18(11), 2523–2531. ↩︎

  3. Wager, T. D., Scott, D. J., & Zubieta, J. K. (2007). Placebo effects on human μ-opioid activity during pain. Proceedings of the National Academy of Sciences, 104(26), 11056–11061. ↩︎

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