前回の記事では、私たちは「頭の中で考えている部分」を自分そのものだと思いすぎているのではないか、という話をしました。私が考える。私が判断する。私が身体を動かす。しかし実際には、身体、感情、知覚、習慣、運動、対人反応など、多くのことが意識的な判断より先に、あるいは意識の外で進んでいます。
では、そうしたさまざまな働きがある中で、私たちが普段「私」と呼んでいるものは何なのでしょうか。
頭の中に一人の司令官のような自我がいて、すべてを統括しているのでしょうか。それとも、「私」とはもっと分散した、多数の働きから成り立っているのでしょうか。
「私」は一つの機能ではない
自己について考えるとき、私たちは「自己」という一つのものが脳のどこかに存在しているように考えがちです。また、「私」という意識が自分の中心であるかのように考えがちではないでしょうか。いわば、「私」という自我の意識があり、それが身体の操縦席にいて、身体をコントロールしたり、話したり、考えたりしているというイメージの方は多いのではないかと思います。
しかし、現在の心理学や認知科学で使われる「自己」という言葉は、実際にはかなり多くの意味を含んでいます。自分の身体を自分のものとして感じること。自分が行動を起こしていると感じること。自分について知っていること。過去の自分を覚えていること。「自分はこういう人間だ」と考えること。社会の中で特定の立場や役割を持っていること。
これらはすべて「自己」に関係していますが、同じ機能ではありません。
実際、自己研究では「minimal self(最小自己)」「bodily self(身体的自己)」「self-concept(自己概念)」「narrative self(物語的自己)」など、複数の概念が使われています。研究領域によって定義も異なり、誰もが合意する一つの定義はないようです[1]。
「自己とは一つの統一された機能である」と単純に考えることは難しいでしょう。
つまり、最初から、自己=一つの中心的な何かと考えない方がよいのかもしれません。
身体・感情・記憶・知覚は、それぞれ勝手に働いている
たとえば、人と話している場面を考えてみます。相手の表情を見る。声を聞く。過去の記憶と照らし合わせる。身体が少し緊張する。ある言葉が自然に浮かぶ。別の言葉は言わない方がよいと感じる。相手の反応を見て言い方を変える。こうしたことが短時間に大量に起きています。
意識が一つひとつ指示を出しているわけではありません。知覚は知覚なりに情報を処理し、身体は身体なりに調整し、記憶は現在の状況と関係するものを呼び出し、感情や習慣も行動に影響します。
しかも、これらは独立しているわけでもありません。身体が緊張すれば、相手の表情の受け取り方が変わるかもしれない。過去の記憶が呼び出されれば、今の状況への警戒が強くなるかもしれない。逆に、相手が笑えば身体の緊張が少し下がることもあります。
つまり、私たちの行動は、身体・知覚・感情・記憶・予測・習慣・思考などの相互作用から作られています。そこに最初から一人の司令官がいて、すべてを逐一命令していると考えなくても説明できます。
それでも、私たちは「一人の私」として経験する
しかし、不思議なことがあります。実際には多数の処理が同時並行的に動いているのに、私たちはそれを、「私が見た」「私が緊張した」「私が考えた」「私が話した」という一つの経験として受け取ります。
身体は別の自分、記憶は別の自分、感情も別の自分、とは感じません。すべてが「私の経験」としてまとまっています。ここに、自我や意識の重要な働きの一つがあるのではないかと考えられます。
つまり、自我とはすべてを直接動かしている司令塔というよりも、別々に進んでいる多数の過程を、「私の経験」としてまとめる働きなのではないか。
この考え方は、現在の自己研究ともある程度整合します。
たとえば、身体運動の中で感じる「自分が動かしている」という基本的な主体感と、「自分は自分の人生をある程度コントロールできる人間だ」といった高次の自己信念は区別できます。そして、最近の研究では、個々の行為についての経験をメタ認知(自分の考えや経験を、一段上から振り返ってとらえる働き)によって評価する過程が、より持続的な「自分は行為主体である」という自己認識と結びつく可能性が示されています[2]。
つまり、一つ一つの経験 → 自分についての理解という統合が起きている可能性があります。
「私はこういう人間だ」という自己物語
さらに人間は、自分の経験を時間の中でつなぎ合わせて物語のように整理します。
子どもの頃はこうだった。こういう出来事があった。だから今の自分がある。私はこういうことを大切にする人間だ。自分はこういう場面ではこう反応する。こうして、多数の出来事に一つの流れを与えます。これが「物語的自己」と呼ばれるものに近い考え方です[3]。
私たちは単に「現在の身体」を自分だと感じているだけではありません。過去の記憶と現在の自分をつなぎ、未来について想像し、「過去から現在まで続いている同じ私」という感覚を作っています。
この自己物語には大きな意味があります。毎日起きる出来事が完全に別々なら、自分が何を大切にし、何を目指し、なぜその行動を取るのか理解しにくくなります。自分について一つの物語を持つことで、経験を整理し、将来の判断にも利用できます。しかし、自己物語には別の側面もあります。
私たちは後から理由を作ることがある
自分がなぜその行動をしたのか、私たちはいつでも正確に知っているのでしょうか。実際には、行動や判断に影響した処理の多くを、本人が直接知ることはできません。それでも、「なぜそうしたのですか」と聞かれれば、私たちは理由を説明できます。
「こう思ったから」「こういう性格だから」「この方が合理的だと思ったから」
もちろん、その説明が正しい場合もあります。しかし、自分の行動を作ったすべての要因に意識的にアクセスできるわけではありません。身体の反応、過去の学習、習慣、その瞬間の感情、無意識的な注意の偏り、バイアスなど、本人が知らない要因も行動に影響します。
このことをよく表している実験があります。参加者に2枚の顔写真を見せ、魅力的だと思うほうを選んでもらいます。そのあと、選んだ写真を手元に渡して「なぜこちらを選んだのか」を説明してもらうのですが、ときどき、気づかれないように選ばなかったほうの写真とすり替えて渡しました。
すると参加者は、多くの場合すり替えに気づきませんでした。そして、実際には選んでいない写真を前にして、「こちらを選んだのは、この表情がいいと思ったから」というように、もっともらしい理由を語ったのです。研究者たちはこの現象を「選択盲(choice blindness)」と名づけました[4]。
本人は嘘をついているつもりはありません。選んだ瞬間の本当の理由とは別に、目の前の結果に合う理由が、その場で自然に作られていたと考えられます。
それにもかかわらず、私たちは自分の行動に一貫した理由を与えようとします。これは、意識が「嘘をついている」というよりも、限られた情報から、自分の行動を理解可能な形にまとめていると考えた方がよいでしょう。自分でも完全には把握できない多数の過程から生じた行動を、「私はこう考えたから、こうした」という一つの物語へ編集するわけです。
「自分がやった」という感覚そのものについても、行為の結果を見てから後づけで調整される部分があることが研究されています[5]。
辻褄を合わせることも、自己を保つ働きになる
この働きは、日常的な自己理解にも現れます。人は、自分について完全に矛盾した物語を持つより、ある程度一貫した自己像を持っていた方が生活しやすい。
「私はこういう人間だ」「私はこういう価値観を持っている」「自分があのときああしたのには理由がある」
こうした説明によって、過去の行動と現在の自分がつながります。ときには、その過程で都合のよい情報に注意が向いたり、出来事の意味づけが変わったりすることもあるでしょう。つまり、自己物語は単なる事実の記録ではありません。膨大で曖昧な経験を、一貫した「私」として理解できる形へ整理する働きでもあります。
この意味では、私たちが「自分自身」だと思っているものの一部は、経験そのものというより、経験について作られたモデルでもあると言えます。
ただし、ここから「自己は幻想である」と結論づける必要はありません。モデルだから偽物なのではありません。地図が現実そのものではなくても役に立つように、自己についてのモデルも、判断し、計画し、他者と関わるために必要です。
自我は「編集者」に近いのかもしれない
ここまでをまとめると、自我について一つの比喩を使うことができます。
自我は司令官というより、編集者に近いといえるかもしれません。
身体、感情、知覚、記憶、行動などから大量の素材が上がってくる。その中から一部に注意を向け、「これは自分の感情だ」「自分はこう考えている」「さっきこう行動した」「これは昔の自分ともつながっている」と整理する。そして、「今ここにいる一人の私」として経験できる形に編集する。
ただし、当然ながら頭の中に本当に小さな編集者がいるわけではありません。また、脳のどこか一か所に「自我中枢」が存在するという意味でもありません。
自己に関係する処理は、身体感覚、記憶、自己知識、行為主体感など、それぞれ異なる神経・認知過程に支えられていると考えられています[1]。したがって「編集」とは、自己に関係する多数の情報が統合され、利用可能になることを説明するための比喩です。
意識は、後から説明しているだけなのか
ここまで読むと、「では意識は、自動的に起きたことを後から説明しているだけなのか」と思うかもしれません。しかし、そこまで単純ではありません。
人間は、意識的に注意を向けることができます。いったん行動を止めることもできます。複数の選択肢を比較する。未来を想像する。計画を立てる。衝動を抑える。自分の考え方を振り返る。こうした働きによって、その後の行動は実際に変わります。
行為主体感についての研究でも、低次の感覚運動情報だけでなく、高次の信念やメタ認知が「自分がどの程度コントロールしているのか」という判断に関わることが示されています[2]。
したがって、自動反応 → 意識による事後説明という一方向だけではありません。むしろ、自動的な処理 → 意識的な経験・解釈 → 注意・判断・計画 → 次の行動 → 新しい経験という循環があります。
意識は自己全体の外側から命令する王様ではありません。しかし、自己システムの内部にありながら、そのシステム自身を観察し、次の行動を変えることのできる特殊な働きを持っています。
「私」は自己全体の中の一階層なのかもしれない
ここで、このシリーズの4本をまとめてみます。人間には、生まれ持った特性があります。そこに環境への適応が加わり、身体反応、感情反応、対人パターン、考え方などが繰り返されます。それらが自動化すると、「自分らしさ」や性格として安定していきます。
そして私たちは、その自動的な反応のすべてを直接知るわけではありません。一部を感じ、一部を言葉にし、「私はこういう人間だ」「私はこう考えている」「だからこう行動した」という自己像を作ります。
すると、
身体・感情・知覚・記憶・習慣・予測・思考などからなる自己全体と、
その全体を意識し、言葉にし、自己物語として扱う働き
を少し区別して考えることができます。後者が、普段私たちが「自我」や「意識的な私」と感じているものに近いのかもしれません。
しかし、それは自己全体ではありません。自己全体の上に立って命令する司令塔でもありません。自己という大きなシステムの中に生まれ、そのシステム自身を部分的に観察し、統合し、修正する一つの階層と考える方が近いのではないでしょうか。
「自分を変える」ということの意味も変わる
この見方をすると、「自分を変える」ということも少し違って見えてきます。頭で正しい考えを理解し、それを身体や感情に命令することだけが変化ではありません。
身体が新しい経験をする。人との関係で新しい反応を経験する。以前とは違う行動を試す。その結果、自動的な予測や習慣が少しずつ変わる。そして、その変化を意識が後から理解する。逆に、意識的に気づいたことによって注意の向け方が変わり、それが新しい経験につながることもあります。
つまり変化とは、意識が身体を一方的に書き換えることではなく、意識と身体、経験、環境が互いに影響し合いながら、自己全体が少しずつ更新されることと考えられます。
私たちの「私」という意識・自我は、頭の中で考えている「声」だけではありません。それよりもずっと多くのものが、すでに「私」を作っています。そして、その全体を完全に見渡すことはできなくても、一部に気づき、言葉にし、別の経験を選ぶことはできる。自我とは、そのために存在する一つの働きなのかもしれません。
注と参考文献
1. 「自己」は単一の概念ではない
「自己」は心理学のさまざまな分野で研究されていますが、分野ごとに多数の用語が使われ、それが混乱の原因にもなっています。2024年のレビューは、自己には誰もが合意する明確な定義がないことを前提に、認知・社会・発達・神経科学・臨床・パーソナリティの6つの分野で使われている自己関連の用語(自己概念、自己知識、アイデンティティなど)を整理し、用語集としてまとめました。本文で「自己全体」「自我」という表現を使っていますが、これは複数領域の知見を一般向けに統合した説明であり、脳科学に「自我」という単一の機能が確立されているという意味ではありません。
Hards E, Rathbone CJ, Ellis JA, Reynolds S (2024). 'What is the self anyway?' Towards a more parsimonious conceptualisation of the self: A review. New Ideas in Psychology, 74, 101080. doi: 10.1016/j.newideapsych.2024.101080. https://doi.org/10.1016/j.newideapsych.2024.101080
2. 基本的な主体感と、高次の自己理解
自己研究では、身体運動の中で生じる基本的な行為主体感などを含む「minimal self(最小自己)」と、自分についての持続的・言語的な信念を区別することがあります。2024年の研究(195人)では、運動課題で「自分が起こした」と判断する感度と、自分がどれだけ物事をコントロールできる人間かについての信念との関係を調べました。コントロールの手がかりに鈍い人ほど、自分の行為主体性について否定的な信念を持つ傾向がありましたが(肯定的な信念のほうには、はっきりした関連は見られませんでした)、この関係は、自分の判断の確かさをどれだけ正しく見積もれるか(メタ認知の感度)を考慮すると、ほぼ消えました。つまり、一回一回の経験と自分についての信念とは、直接ではなく、メタ認知を通じてつながっている可能性があります。これは「個々の経験がそのまま自己物語になる」と証明したものではありませんが、低次の主体経験と高次の自己認識が別物でありながら接続していることを示す一例です。
Veillette JP, Ho L, Nusbaum HC (2024). Metacognition bridges experiences and beliefs in sense of agency. Consciousness and Cognition, 124, 103745. PMID: 39178588. doi: 10.1016/j.concog.2024.103745. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/39178588/
3. 最小自己と物語的自己
哲学者ギャラガーは、「いま・ここ」で経験される最小自己(自分の体だという感覚と、自分がしているという感覚)と、過去・現在・未来にわたる出来事を一つの物語としてつなぐことで作られる物語的自己とを区別しました。本文の「過去から現在まで続いている同じ私」は、後者にあたります。
Gallagher S (2000). Philosophical conceptions of the self: Implications for cognitive science. Trends in Cognitive Sciences, 4(1), 14–21. doi: 10.1016/S1364-6613(99)01417-5. https://doi.org/10.1016/S1364-6613(99)01417-5
4. 選択盲(choice blindness)
ヨハンソンらの実験では、参加者が2枚の顔写真から魅力的なほうを選んだあと、実験者がひそかに操作して、選ばなかったほうの写真を「あなたが選んだ写真」として示す試行を混ぜました。参加者は、意図した選択と実際の結果との明らかな食い違いにしばしば気づかず、それでも自分がなぜそれを選んだのかを内省にもとづいて説明しました。意思決定の理論では、人は意図と結果の食い違いに気づいて行動を修正すると考えられてきましたが、その前提がいつも成り立つわけではないことを示した研究です。本文の「この表情がいいと思ったから」は、説明の形を示すための例です。
Johansson P, Hall L, Sikström S, Olsson A (2005). Failure to detect mismatches between intention and outcome in a simple decision task. Science, 310(5745), 116–119. PMID: 16210542. doi: 10.1126/science.1111709. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/16210542/
5. 後付けの説明について
行為主体感には、運動前の予測や実際の感覚だけでなく、行為の結果や自己関連情報、その後の判断も影響します。2024年の研究では、行為の結果として自分に関係する音(自己関連の刺激)が流れると、行為と結果の時間が縮まって感じられる現象(時間的結合。行為主体感の指標として使われます)が変化し、とくに結果の側の知覚が影響を受けました。著者らは、行為のあとに働く説明のモデルでこの結果を説明できるとしています。ただし、これを「人間の意識はすべて後付けの作話である」と一般化することはできません。意識的な注意、計画、抑制、メタ認知も、その後の行動に実際に影響します。
Huang G, Jia X, Zhang Y, Zhao K, Fu X (2024). The role of self-related information in the sense of agency. Consciousness and Cognition, 119, 103671. PMID: 38422758. doi: 10.1016/j.concog.2024.103671. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/38422758/