はじめに:どこまでが「自分の体」か
使い慣れた道具は、自分の体の一部のように感じられます。
長く使っている包丁、履き慣れた靴、乗り慣れた自転車。狭い道を通るとき、車幅を体の幅のように感じ取れる人もいます。
私は剣術をやっているので剣術で例えますが、木刀の切先が自分の指先のように感じられる瞬間があります。テニスのラケット、野球のバット、楽器、あるいは使い込んだ道具を持つ職種の方なら、それぞれの場面で似た感覚を経験されているのではないかと思います。
これは比喩でしょうか。それとも、脳の中で本当に何かが起きているのでしょうか。
神経科学の研究は、後者を支持しています。道具を使うと、脳がもっている「体の地図」そのものが、道具の先まで広がることが確かめられています。
🎯 この記事で伝えたい3つのこと
1. 道具を使うと、脳の中の体の地図が道具の先端まで広がる
2. それは神経細胞のふるまいの変化として観察されている
3. 「どこまでが自分の体か」は、固定されたものではない
1. 熊手を使った訓練で、脳の反応が変わった
霊長類の神経生理学の研究に、道具の使用と脳の関係を調べたものがあります[1]。
サルに、熊手のような道具を使って、手の届かない場所にある餌を取る訓練を行います。そのうえで、脳の中心後回という領域の、体の感覚と視覚の信号が集まってくる場所の神経細胞を記録しました[1]。
そこには、視覚と触覚の両方に反応する神経細胞が多数見つかりました。手に何かが触れたときにも、手の近くに何かが見えたときにも反応する細胞です。これらは、脳が手について持っている情報を担っていると考えられています。
注目すべきはここからです。道具を使っているあいだ、これらの細胞が反応する視野の範囲が変化しました。熊手の全長を含むように広がったり、道具によって届くようになった空間を覆うように広がったりしたのです[1]。
つまり、「手のあたり」に反応していた細胞が、「熊手の先のあたり」にも反応するようになった。研究者らは、これを道具が組み込まれた手の地図の変化を反映している可能性があると述べています[1]。
この現象はその後、ヒトを含む広い文脈で「道具の身体化」として整理されるようになりました[2]。
なお、ここで紹介した神経細胞レベルの観察はサルを対象としたものです。ヒトの脳で同じことが起きていると直接証明されたわけではない、という点は押さえておく必要があります。
2. 体の地図は、書き換わり続けている
私たちの脳は、自分の体について地図のようなものを持っています。どこに何があり、どのくらいの大きさで、どこまで手が届くのか。この地図があるから、暗闇でも自分の鼻に触れられます。
そしてこの地図は、生まれたときに完成して固定されるものではありません。使い方によって書き換わり続けます。
道具の身体化は、その分かりやすい例です。道具を使い込むほど、地図はその先端まで伸びていく。逆に言えば、「体はここまで」という境界は、脳が決めているにすぎないということでもあります。
ここには、より広い意味があります。地図が書き換わるのなら、うまく使えていない部分の地図を、あとから育て直すこともできるはずです。感じられない場所は動かせません。地図が薄い場所は、力の入れ具合も曖昧になります。
JINENの言葉でいうと
JINENボディワークが「ボディリマッピング」と呼んでいるのは、まさにこの地図の書き換えのことです。
私たちは、この地図を育てるために「感じる」ことから始めます。触れる、ゆっくり動かす、重さを感じる。地図が明確になるほど、その部位は無駄な力なく、思いどおりに動くようになります。
そして道具の身体化は、この考え方をもう一歩先へ進めてくれます。
剣術で例えると、相手の太刀を受けたとき、相手の太刀もまた、自分の身体制御系の一部として働いていると考えられます。相手の刀から返ってくる抵抗や張りを感じ続けているかぎり、そこは情報が流れる回路であり、脳にとっては体の延長です。自分の刀だけを操作しようとすると腕主体になって払いが弱くなるのに、相手の太刀を感じ続けると全身が自動的に整う。この違いは、そこが「体の外」なのか「体の延長」なのかの違いなのかもしれません。
これは武道に限った話ではないはずです。ラケットでボールを受けるとき、相手と組む競技で相手の力を感じるとき、介助や手当てで人の体に触れるとき。接している相手から情報が返ってきているかぎり、同じことが起きていると考えられます。
床についても同じことが言えます。床支点という言い方をしてきましたが、床は外部にある踏み台ではなく、体と一つの系をつくっている相手です。
こう捉え直すと、身体操作の意味が少し変わってきます。整えるべきは自分の体だけではありません。体と環境をつなぐ回路を、どれだけ開いておけるか。それが動きの質を決めています。
今日、何か道具を手に取ったら、少しだけ意識してみてください。それを「握って動かす物体」として扱うのか、「自分の延長」として感じるのか。同じ動作でも、体の使われ方が変わります。
補足
この記事は、読者の方々の個人的な実践や学習のヒントとなる研究を紹介する目的で制作したものです。効果を保証するものではありません。また、エビデンスは最新の研究によって覆される場合や、賛否があるものもあります。学習や実践の参考程度にしてください。
参考文献
1. Iriki A, Tanaka M, Iwamura Y (1996). Coding of modified body schema during tool use by macaque postcentral neurones. NeuroReport, 7(14), 2325–2330. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/8951846/
2. Maravita A, Iriki A (2004). Tools for the body (schema). Trends in Cognitive Sciences, 8(2), 79–86. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/15588812/