要旨
デジタル社会では、企業が意味を作り、消費者が受け取るという一方向のモデルだけでは、ブランドやコンテンツの形成過程を説明しにくくなっています。商品や作品をめぐる意味は、企業、消費者、ファン、コミュニティ、メディア、プラットフォームのあいだで共同生成され、その解釈が再び企業や作り手へ戻ります。
この変化から、ブランドを完成したストーリーではなく継続的なナラティブとして扱うこと、機能や品質に加えて解釈可能性を価値として考えること、意味を完成させて渡さず受け手が参加できる余白を残すことなどが導かれます。一方で、余白やズレを意図的に設計しすぎれば、受け手の解釈を誘導し、新しい管理へ変わる危険もあります。
本稿の目的は、成功法則を提示することではありません。媒介化とメタ化という社会変化から、企業活動と創作にどのような可能性と限界が生じるかを、検証可能な仮説として整理することです。
第0部 三本の論考から受け取るもの
0-1. 三本の論考と本稿の関係
本稿には、親となる三本の論考があります。
| 論考 | 問い |
|---|---|
| 二重の工学化と人間 (前編) | 近代は何を組み立て、それは人が伸びる仕組みに何をしたのか |
| 行為空間の設計 (後編) | その人間観から、組織と社会をどう設計するのか |
| 媒介化とメタ化 (対になる論考) | 同じ時代に、意味と解釈の側では何が起きたのか |
本稿は三本目から、企業・ブランド・サービス・創作にかかわる議論を分離したものです。本編は認識論と社会論を中心に据え、企業論は要点だけを残しました。 その要点を、ここでは作り手の実務に沿って展開します。 したがって第2章と第3章のように、本編と同じ主題を扱う章があります。本編で結論だけを述べた箇所を、本稿では過程まで開きます。
本稿を読まなくても、本編の中心論証は成立します。反対に本稿は、本編の結論をそのまま前提として受け取ります。順序としては本編を先に読むほうが自然ですが、実務から入る読者のために、必要な概念は本稿の中で短く補います。
0-2. 本稿が受け取る四つの前提
第一に、認識は圧縮です。 人は世界をそのまま受け取れません。感覚には限りがあり、注意は絞られ、記憶は要約されます。したがって商品や作品が受け手に届くとき、届いているのは物そのものではなく、圧縮された像です。企業や作り手が向き合うのは、その像だといえます。
第二に、抽象化には二種類あります。 比較・予測・配分・管理を目的とする 操作的抽象化 と、理解・意味づけ・自己形成・共有を目的とする 解釈的抽象化 です。同じ顧客調査が、顧客の世界を理解する材料にもなれば、セグメントへ配分する道具にもなります。表現が同じでも、目的が違えば別のものです。この区別は、三本の論考すべてを貫く軸です。
第三に、人と対象のあいだに層が重なり、層のあいだに戻り道ができました。 商品と消費者のあいだには、広告、レビュー、ランキング、推薦アルゴリズム、他人の投稿、その投稿への反応が積み重なっています。そして、いちばん外側の層で生まれた解釈が、いちばん内側の作り手へ返ってきます。デジタル以前にも層はありましたが、戻り道はこれほど速く、これほど多くの人に開かれてはいませんでした。 本稿が扱うのは、この戻り道が開いた後の作り手の仕事です。
第四に、能力も意味も、関係の中に現れます。 前編は、能力は個人の内部に蓄えられた資産ではなく、 人 × 他者 × 道具 × 環境 × 課題 の関係から立ち上がる、という人間観へ着地しました。本稿はこれを意味の側で言い換えます。 作品やブランドの意味は、その内部にあるのではなく、作品と受け手と他の受け手と社会の関係の中に現れます。 企業が意味を完全には支配できないのは、企業が力不足だからではなく、意味がそういう場所にあるからです。
そして三本が共有する判定を、本稿も共有します。
抽象や解釈が、現実の反応によって修正される回路を持っているか。
前編はこれを学習の循環として、後編は組織の設計原理として、対になる論考は再具体化として扱いました。本稿では、作り手と受け手のあいだにこの回路があるかどうかを問います。
0-3. 本稿の問い
前提を認めると、作り手にとって不都合な結論が出ます。 意味は設計できません。 企業がどれほど周到にブランドの物語を組み立てても、それがどう読まれるかは受け手と、受け手同士の会話と、その時々の社会状況が決めます。
しかし、これは作り手にできることが何もないという話ではありません。本稿の問いは、次のとおりです。
意味そのものを決められないとすれば、作り手には何が設計できるのか。
結論を先に言えば、 意味は設計できないが、意味が生まれる条件は設計できる という形になります。素材、表現、接点、参加のしかた、応答のしかたです。そして条件の設計は、放っておけば誘導へ変わります。第IV部では、その境界を判定する条件を示します。
第I部 意味の共同生成と消費
1. 意味の共同生成とブランド・コミュニティ
意味が関係の中に現れるとすれば、次に確認すべきなのは、その関係の最小単位です。ここで手がかりになるのが「間主観性」です。
人間は世界を一人で解釈しているわけではありません。
自分が対象を見る
→ 他者がどう見るかを知る
→ 他者の解釈によって自分の認識が変わる
→ 自分の解釈を他者へ返す
→ さらに他者の解釈が変わる
という相互作用があります。SNSは、この間主観的な意味形成を可視化し、高速化しました。 その結果、
企業 → 消費者
という一方向モデルではなく、
企業 ↔ 消費者 ↔ 消費者 ↔ コミュニティ ↔ メディア ↔ 企業
というネットワークの中で意味が形成されます。これは現代のブランドやコンテンツを理解するうえで重要です。 ブランド研究でも、ブランドを愛好する人々のあいだに、地理的近接を前提としない社会関係が形成される「ブランド・コミュニティ」が論じられてきました。さらに複数のブランド・コミュニティを対象にした研究では、消費者の実践が企業の設計や予想を超える価値を生む過程が示されています。これは、意味と価値が企業から一方向に供給されるのではないという本稿の見方を補強します。 [1] [2]
2. ストーリーからナラティブへ
意味が共同で生成されるなら、ブランドの捉え方そのものが変わります。本編ではこの結論だけを述べました。ここでは、企業の側で何がどう入れ替わるのかを追います。
従来型のブランディングでは、
企業が理念を決める
→ ストーリーを作る
→ 広告で伝える
→ 消費者が受け取る
という発信者中心のモデルが主流でした。
しかし現在では、
企業が素材や価値観を提示する
→ 消費者が解釈する
→ 消費者同士が意味を共有する
→ 新しい意味が生まれる
→ 企業がそれを受け取る
→ 次の表現へ反映する
という循環が生まれます。
つまりブランドとは、
企業が完成させて提供する「ストーリー」
というより、
企業と消費者、ファン、社会が継続的に共同生成する「ナラティブ」
になっていきます。企業はブランドの意味を完全には支配できません。 むしろ企業に求められるのは、
意味を一方的に設計する能力
ではなく、
意味が生成される環境・余白・関係性を設計する能力
だと考えられます。
3. ブランド消費からアイデンティティ消費へ
作り手の側から受け手の側へ視点を移します。ここも本編が要点を述べた主題ですが、作り手にとっては、自分が扱っている商品が相手にとって何であるのかという問題になります。
消費のメタ化が進むと、商品は単なる機能ではなくなります。
消費者は、
この商品を選ぶ自分はどういう人間なのか
このブランドはどんな価値観を表しているのか
他人はこの選択をどう見るのか
この商品は社会の中で何を意味しているのか
まで考えます。
したがって消費は、
物 → 意味 → 自己 → 他者 → 社会
という重層構造を持ちます。たとえば服、音楽、映画、旅行、食事、ブランドなどは、自分のアイデンティティを形成・表現するための記号となります。 消費と自己の関係自体は情報社会に始まったものではありません。ベルクの「拡張された自己」論は、所有物が自己認識の構成と表現に関わることを1988年の時点で整理しています。したがって現代的変化として検討すべきなのは、消費が自己と結びつくことの新しさではなく、その選択と意味づけがSNS上で可視化・比較・更新される頻度と範囲です。 [3]
その意味で現代の消費は、
「何を所有するか」から「どの意味世界に属するか」へ
部分的に変化していると考えます。
第II部 サービスとクリエイティブ
4. メタレベルのニーズとサービス
ここまで見てきたように、消費者が機能だけでなく意味や自己理解まで求めるなら、商品やサービスも単純な問題解決だけでは十分ではなくなります。自己と意味をめぐる問題は本編で扱い、ここでは作り手側に生じる変化を詳しく見ます。
たとえば、
「癒やされたい」
というニーズに対して、単にリラクゼーションを提供するだけでなく、
なぜ自分はこれほど疲れているのか なぜ成長し続けなければならないと思っているのか なぜ自己管理に疲弊しているのか
という「問題を見る枠組み」を提供することにも価値が生まれます。
つまりサービスは、
問題を解決するもの
だけでなく、
自分の問題を新しい角度から理解する装置
になり得ます。ここでは「答え」より「意味づけ」「再解釈」「自己理解」が商品価値となります。これは前編が扱った問題の裏返しでもあります。前編は、自己管理と自己啓発によって人が自分を測るようになった過程を追いました。 自分の疲れを説明する枠組みが商品になるのは、その測定に疲れた人がいるからです。
ただし、この方向にも危うさがあります。 枠組みの提供は、提供者の解釈を相手に引き受けさせる行為でもあります。 自分の疲れを説明する言葉を外から受け取ることは、理解の助けになると同時に、他人の物語の中へ自分を置くことでもあります。後述する「意味を完成させて渡さない」という原則は、ここにも適用されます。
4-1. 作り手の重心の移動
受け手が表現の背後にある意味・文脈まで読むようになれば、作り手側もそれを前提に表現するようになります。
従来なら、
何を表現するか
が中心でした。
しかし現代的なクリエイティブでは、
どう解釈されるか どんな考察が生まれるか どんな社会的文脈に接続されるか どんなミームになるか どんなコミュニティが形成されるか
までが設計対象になります。
つまり、
「作品を作る」ことから「意味生成が起こる場を作る」ことへ
クリエイティブの重心が部分的に移ります。本編第0-4章で述べた「層のあいだに戻り道ができた」という変化を、作り手の側から見ると、こうなるわけです。作ったものが解釈され、その解釈が自分に返ってくることを前提に作る、ということです。
5. 解釈可能性という商品価値
この観点からすると、現代コンテンツには「解釈可能性」という価値があります。
従来の商品価値を、
機能
品質
デザイン
とすれば、そこに、
解釈可能性
を加えることができます。
つまり、
- その作品について語れる
- 自分なりの意味を見つけられる
- 他人と解釈を交換できる
- 社会や自己と接続できる
- 二次創作やミームを作れる
こと自体が価値になります。ここでは、説明しすぎないこと、曖昧さを残すこと、矛盾した要素を共存させることなどが重要になります。 ただし、余白は多ければよいというものではありません。 解釈の余地が設計として過剰になると、意味はかえって固定します。 「これは解釈すべきものだ」という合図が強すぎると、受け手は自分の読みを作る前に、期待されている読み方を探し始めるからです。余白は、受け手が自分で踏み込む隙間であって、踏み込み方の指示ではありません。
6. ニーズを理解しながらあえて外す
ここからさらに重要なクリエイティブ論が導かれます。
従来型マーケティングは、
ニーズを発見する
→ ニーズに一致する商品を作る
という考え方を取ります。しかし、高度にメタ化した消費者に対しては、単純にニーズへ一致するだけでは予定調和になります。 そこで、
深いニーズを理解する
→ そのニーズの社会的・心理的背景まで理解する
→ しかし表現上はあえて直接応えない
→ 少しずらして提示する
という方法が考えられます。
たとえば、
「癒やされたい」
→ ただ優しいだけのコンテンツ
ではなく、
「癒やされたい」
→ かわいいが不穏
→ 優しいが残酷
→ 安心するが少し怖い
というズレを作ります。
そのズレによって、
なんだこれは
→ なぜ気になるのだろう
→ 自分たちの社会状況と似ているのでは
→ これはこういう意味なのかもしれない
という解釈運動が起こります。
つまり、
ズレ → 解釈 → 意味生成 → エンゲージメント
という構造です。
したがって高度なクリエイティブでは、
ニーズを理解すること
と、
ニーズに直接応えること
を分離する必要があります。
6-1. この方法が失敗する条件
「あえて外す」は万能の原則ではありません。次の条件では、ズレは解釈運動ではなく拒否を招きます。
- ズレが大きすぎる場合。 受け手が元のニーズとの関係を見失うと、作品は意味不明として処理されます。ズレが機能するのは、応えられているという感触が残っている範囲内です。
- 信頼が成立していない場合。 既知の作り手のズレは「意図がある」と読まれますが、未知の作り手のズレは「雑である」と読まれます。同じ表現でも、関係の有無で結果が変わります。
- 不快が意味へ変換されない場合。 不穏さや残酷さは、受け手が自分の状況と重ねられたときに意味になります。重ならなければ、単に嫌なものとして終わります。
- その領域で信頼が第一の価値である場合。 医療、金融、安全、教育など、期待どおりであることが価値の中心にある領域では、ズレは不信を招きます。
つまり「あえて外す」が有効なのは、 受け手が解釈に時間を使う用意があり、外れても実害がない領域 に限られます。この条件は偶然の一致ではありません。後編「行為空間の設計」は、何を中央で決め何を現場に任せるかを、可逆性、探索の価値、失敗の重さといった軸で判定しました。 ここで言う「あえて外す」が許される領域は、後編が「探索を任せてよい」と判定する領域とほぼ重なります。 組織の設計でも表現の設計でも、外れてよいかどうかが先に決まり、そのあとで探索の幅が決まります。
7. 探索的事例 ちいかわと藤井風
以下の二例は、本稿の仮説を具体化するための探索的な読みです。作者本人の意図や作品の唯一の意味、受容全体を事実として示すものではありません。
「ちいかわ」は、かわいいキャラクターとして楽しめる一方、労働、資格、格差、不条理、生存、友情、ブラックユーモアなどを読み込めます。「かわいいのに怖い」「癒やされるのに不穏」というズレが解釈を誘い、作品の価値を、見た目の魅力だけでなく 意味を読み込み他者と語れる余地 へ広げています。
藤井風の音楽と表現にも、自由、自己受容、非物質主義、固定的役割からの離脱、精神性、自然体などの意味を読むことができます。音楽の消費が、その音楽に象徴される生き方や世界観の受容、さらに「その価値観へ共感する自分」という自己形成へつながる例です。
二つに共通するのは、コンテンツが作品内部だけで完結せず、受け手が自分の社会認識や生き方を考え、他者と語るための文化的資源として働くことです。
8. 現代アートとの類似
この社会全体のメタ化を考える際、現代アートの歴史との類似も重要です。
複数の美術史的潮流のうち、表現そのものの条件を問い直す流れを極度に単純化すれば、
現実を描写する
→ 現実を様式化する
→ 形・色・構造を抽象化する
→ 「芸術とは何か」そのものを問う
という流れを見ることができます。
これは美術史全体が一方向に発展したという事実記述ではなく、本稿のメタ化仮説と比較可能な一つの分析モデルです。具象表現、装飾、宗教美術、商業美術など、多様な実践は並行して存在し続けています。
つまり、
対象を表現する
ところから、
表現そのものを対象化する
方向へのメタ化です。本編第2章の水準でいえば、二次から三次への移行にあたります。
デュシャンのレディメイドなどでは、作品そのもの以上に、
何を芸術と呼ぶのか
誰が芸術を決めるのか
鑑賞とは何なのか
といった制度や認識そのものが作品化されます。
ダントーは、この転換を「アートワールド」という概念によって論じました。工業製品としての便器と、展示された《泉》は、目で見るかぎり区別できません。にもかかわらず一方だけが作品として扱われるのはなぜか。ダントーの答えは、 見ることそのものには含まれていない何かが要る というものでした。芸術についての理論と歴史の蓄積、そしてそれを共有する人々の場です [4] 。
本稿の言い方に移せば、これは意味が対象の内部にないことの、最も極端な実例です。同じ物が、置かれる関係によって別のものになります。 作り手が動かせるのは物のほうだけで、意味は関係の側にあります。
ここまでの三章は、本編の枠組みが芸術という別の領域でも同じ形で現れるかを見る試みでした。同様の変化が、
- コンテンツ
- 広告
- ブランド
- 自己表現
- 仕事
- IT
- 消費
などでも起こっているのではないか、という仮説が成立します。
第III部 企業の自己解釈とAI
9. 自らについての解釈を扱う企業
こうした社会では、個人と企業が似た問題を抱えます。
企業:
自社は何者か どう見られているか どういう価値観を示すか 他者の反応をどう受け取るか
個人:
自分は何者か どう見られているか どういう価値観を示すか 他者の反応をどう受け取るか
企業にはブランドがあり、個人にはアイデンティティがあります。どちらも固定した実体というより、
他者との相互作用によって継続的に形成される社会的自己
として扱えます。
そして、どちらも本編の再具体化章の問いを共有します。 自分についての解釈が、現実の反応によって修正される回路を持っているかどうか。 ブランド調査を繰り返しても、その結果が事業のあり方を変えないなら、企業にとってそれは再具体化ではなく、自己像の再確認にすぎません。
9-1. 企業活動そのもののメタ化
こう考えると、企業の変化はマーケティングだけに限られません。
企業活動は、
商品を作る → 商品を売る
という直接的活動から、
顧客を理解する ブランドを設計する 顧客体験を設計する コミュニティを形成する データを分析する 顧客がどう解釈するかを分析する 社会的意味を管理する
というメタレベルの活動へ広がります。
つまり企業は、
モノを操作する組織から、情報・意味・関係を操作する組織へ
部分的に変化しています。
ここで注意すべきは、この移行が 解釈的抽象化と操作的抽象化の両方を含む ことです。顧客の意味世界を理解しようとする営みは解釈的ですが、それを分類し、スコア化し、セグメントへ配分する営みは操作的です。企業の中では、この二つが同じ部署の同じ作業として行われます。本編第0-3章で述べた「同じ表現が目的によってどちらにもなる」という事態が、最も濃く現れる場所です。
10. AIによるメタ化の加速
AIは、この構造をさらに一段上へ押し上げます。
たとえば、
作品
→ 人間が考察
→ AIが複数の考察を統合
→ AIが社会的背景を分析
→ AIが新しい解釈を生成
→ その解釈をもとに新しい作品を生成
という循環が可能になります。
企業でも、
消費者の反応
→ データ化
→ AI分析
→ 潜在ニーズ推定
→ AIによる広告・コンテンツ生成
→ 消費者が反応
→ 再び分析
となります。
したがってAIとは、
すでにメタ化された社会を、さらにメタ分析・再生成する装置
として捉えることができます。
10-1. AIが働く二つの方向
ここで、加速の中身を分けておく必要があります。 AIは、意味生成を広げる方向にも、狭める方向にも働きます。
広げる方向としては、次の点が挙げられます。
- 言語や専門知識の壁を越えて、これまで届かなかった文脈や先行作品へアクセスできる
- 一人では担えなかった変換(翻訳、要約、図解、別ジャンルへの移し替え)を個人が行える
- 解釈の選択肢を増やし、思いつかなかった読みを提示する
狭める方向としては、次の点が挙げられます。
- 学習データの分布に沿った、平均的で無難な解釈が量産される
- 作品に触れる前にAIの要約と解釈を読むことで、一次的な情動の経験が省略される
- 評価と推薦の基盤がさらに集中し、可視性の配分がより少数の仕組みに依存する
- 「誰かが読んでくれる」という前提が崩れ、書くこと自体の動機が変わる
どちらへ転ぶかは、技術の性質ではなく、 その技術をどの制度が、誰の利益のために運用するか によって決まります。本稿はこれを、AIの本性についての予測ではなく、設計と運用の課題として扱います。
そして本編第18-3章の判定は、AIにも適用できます。AIが生成した解釈が、自分の現実の反応によって修正されるなら、それは再具体化の回路の中にあります。生成された解釈をそのまま受け取り、自分の経験のほうを合わせにいくなら、回路は閉じています。
11. 意味の多層設計
ここまでの議論から、現代的なコンテンツやブランドの設計は、次のような階層を持つと考えられます。
第1層:現象
何が起きているか。
第2層:感情
楽しい、かわいい、怖い、感動する。
第3層:意味
これは何を象徴しているのか。
第4層:文脈
どのような社会・文化・歴史の中で成立しているのか。
第5層:自己
自分にとってこれは何を意味するのか。
第6層:間主観性
他人はどう解釈しているのか。
第7層:社会的再帰性
なぜ今、社会全体がこの意味を求めているのか。強いコンテンツは、必ずしもすべての層を明示するわけではありません。 むしろ、
表層だけでも楽しめる
少し考えると意味が見える
文脈を知るとさらに深まる
他人と話すと別の意味が生まれる
という構造を持ちます。
ここで企業や作り手に求められるのは、抽象的なブランド思想や完成済みの意味を一方向に伝えることだけではありません。まず、かわいい、面白い、美しい、気持ちいい、おいしい、使いやすいといった一次的・具象的な魅力が必要です。そのうえで、考えると別の意味が見え、他者と話すと意味が増え、その意味を知ってもう一度触れると違って見えるような、 具象と抽象を何度も往復できる素材・記号・矛盾・謎・余白 を提供することが重要になります。
つまり、強いクリエイティブとは意味を完成させて渡すものではなく、受け手が意味を作り、それを語り、別の具象へ変換し、再び元の作品や商品へ戻ってこられる環境を設計するものだと考えます。
これは本編第18-3章の判定項目を、作り手の側から言い換えたものです。 受け手の解釈が、作品に触れ直すことで更新されるなら、その作品は再具体化の回路を内蔵しています。
第IV部 設計原則と限界
12. 意味を設計するのではなく意味生成の条件を整える
ここまでの議論から導かれる原則は、意味を一方的に決定することではありません。企業や作り手が決められるのは、素材、表現、接点、参加方法、応答の仕方など、意味が生まれる条件の一部です。
重要なのは、次の区別です。
- 伝えるべき最低条件 :安全、機能、価格、契約、責任範囲など、曖昧にしてはいけない情報です。
- 共同生成できる領域 :ブランドの物語、作品の意味、コミュニティの文化など、受け手の経験と解釈によって豊かになり得る領域です。
- 探索を許せる領域 :外れても実害が小さく、複数の試みが価値を持つ表現や企画です。
- 標準化すべき領域 :医療、金融、安全、教育上の重要説明など、期待どおりであることや正確性が優先される領域です。
したがって「余白を作る」「ニーズから外す」は普遍的なマーケティング原則ではありません。可逆性が高く、受け手が解釈へ参加する余地のある領域でのみ、有効性を検討できます。
13. 解釈可能性と操作の境界
意味生成の場を整えることは、受け手の自由を保証するとは限りません。企業が考察、共有、参加をあらかじめ計算し、望ましい解釈へ誘導すれば、共同生成の外見を持つ操作になります。
この境界を判定するには、少なくとも次を問う必要があります。
- 企業に不都合な解釈も残れるか。
- 消費者やファンが意味を修正し、異議を示せるか。
- 参加しない人が不利益を受けないか。
- 企業がフィードバックによって自分の行動を変えるか。
- 解釈や参加が、可視性・評価・購買の圧力へ従属していないか。
企業だけが相手を観察し、分類し、反応を最適化するなら、それは再帰的な関係ではありません。相手から返る反応によって企業自身も修正されるとき、初めて共同生成の循環になります。
14. 今後の検証課題
三本の論考は、それぞれ別の道を通って同じ地点に出ました。前編は学習の循環として、後編は組織の設計原理として、対になる論考は認識の圧縮として、いずれも 現実からの訂正が届く経路を残すこと へ至っています。本稿はそれを、作り手と受け手のあいだで考えたものです。作ったものが読まれ、その読みが返り、返ったものによって次の作り方が変わる。この回路が開いているかどうかが、本稿の唯一の判定基準です。
そのうえで、本稿には今後少なくとも次の検証が必要です。
- 解釈可能性が、どの領域で継続的な価値や参加へ結びつくのか。
- 曖昧さやズレが魅力になる条件と、理解不能・不信になる条件は何か。
- ブランド・コミュニティの共同生成と、プラットフォームによる可視性の集中はどう両立するか。
- 企業が消費者の解釈を取り込むことは、組織の学習になるのか、表面的な模倣にとどまるのか。
- AIによる制作支援は意味の探索範囲を広げるのか、既存の平均へ収束させるのか。
- 解釈への参加を促す設計と、心理的・文化的操作を分ける基準を作れるか。
注記
本稿には、既存研究を参照した内容と、そこから企業活動や制作へ展開した仮説が含まれます。ブランド・コミュニティと消費者実践による価値の共同生成、所有物と自己認識の関係、芸術を成立させる制度と理論の役割については、既存研究を参照しています。
一方、ブランドがストーリーから継続的なナラティブへ移るという整理、問題を見る枠組みや解釈可能性を商品価値として扱うこと、ニーズを理解しながら表現ではあえて外す方法とその失敗条件、企業の自己解釈、AIの両義性、意味の多層設計は、本稿が複数の議論を接続して構成した仮説です。ちいかわと藤井風の事例も、この仮説を具体化するための読みであり、作者本人の意図、唯一の作品解釈、受容全体を示すものではありません。現代アートについてはダントーの議論を参照していますが、それ以外の美術史的な整理には直接対応する出典を付けていません。
参照資料
1. Muniz, A. M., & O'Guinn, T. C. (2001). “Brand Community.” Journal of Consumer Research , 27(4), 412–432. https://doi.org/10.1086/319618 ↩
2. Schau, H. J., Muniz, A. M., & Arnould, E. J. (2009). “How Brand Community Practices Create Value.” Journal of Marketing , 73(5), 30–51. https://doi.org/10.1509/jmkg.73.5.30 ↩
3. Belk, R. W. (1988). “Possessions and the Extended Self.” Journal of Consumer Research , 15(2), 139–168. https://doi.org/10.1086/209154 ↩
4. Danto, A. C. (1964). “The Artworld.” The Journal of Philosophy , 61(19), 571–584. https://doi.org/10.2307/2022937 ↩